『嵐電』鈴木卓爾
渡辺進也
[ cinema ]
嵐電の駅に併設されたカフェで、8ミリの上映会が行われている。その中では一般の方が撮られた嵐電の姿が上映されていて、それが途中から『嵐電』の登場人物たちの姿が映る劇中のものへと変わってゆくのだが、それらが自然と並んでいることにすごく驚かされる。それは、単に各々の映像の質が似ているからということだけではなくて、作品と関係ないところで撮られた映像と作中の映像とが同じように並んで上映されていても不思議ではないということに驚かされるということだ。
たとえばそのことはこの上映会の8ミリによるものだけではなく、『嵐電』の作品全体にも広がっているのではなかろうか。普段通りそのまま映るなんてことがありえないことはわかっているのだけれども、それでも登場人物たちの横に座っている人々がたまたまその日にそこに居合わせた人なのではないかと見えるし、街を歩いている人がいつもそこを歩いている人なのではないかと思ってしまう。嵐電沿線の界隈がそのまま映っているように感じる。それは単純な自然さということよりも、人々やその風景を映画のために近づけるのではなくて、俳優やスタッフの方をこそ、その場所や人のために近づけるというような、そうした反対のベクトルのことが行われているのではないかと思った。映画をつくること自体が現実の地平へと接近し、そのまま現実の地平が違ったものに見えるというような変容。(そのことは鈴木卓爾監督の近作でも同様なことが行われていたのではないだろうか。渡り鳥は人々の生活の中に紛れ込み、空にカーテンがかかるだけでその場所の風景が変わって見える)。だから、『嵐電』では、現実の地平から映画が立ち上がっていく時間そのものに驚かされる。それはときにゆっくりのろのろと始まり演技とも感情の表れとも思える場面にまで高まり(台本の読み合わせの場面)、ときにカメラの角度を少し変えただけで別時空の空間が立ち上がったりする(井浦新の借りた部屋に過去が流れ込む場面)。その時間が最初からでもなく、突然でもなく、気がつけばそうした時間になっている。その変容の様は作品上にあっけらかんと晒されている。
だから、俳優はフィクションの人でもあるとともに市井の人であることが同時に求められる。その中で、特に大西礼芳がとてもよかった。相手の言葉を受けると、くるくると表情が変わっていく。低いテンションから楽しげな様子まで、文字通り喜怒哀楽。引いた画面がメインであるこの映画の中で、終盤の方にあまりない切り返しがあるのだけれど、この場面の接続感がすごかった。彼女と車両の整備をしている幼馴染か誰かの男性とが久しぶりに再会するのだけど、所在なさげに立つ男性と彼女の表情とが交互に見せられる。もちろん実際には、彼女の方は一度のカットで撮られていて、その間に相手型の姿が挿入されているのだと思うのだけど、それでもその切断が切断されることなく、溢れ出す様々な感情を繋いでくれていてくれる。「感情が切れるので私は切り返しを使うことを好まない」と言っていたのは誰だったか。その監督もこの場面を見ればきっと嫉妬するのではないだろうか。
7月5日(金)よりアップリンク吉祥寺にて上映、ほか全国順次上映中