『さらば愛しきアウトロー』デヴィッド・ロウリー
梅本健司 坂本安美
[ cinema ]
Just living
ひとりの男の背中が映る。奥では女が札束を鞄に詰め込んでいる。慌ただしいタイマーの音や警察の通信機から聞こえる会話とは異なり、彼はいたって落ち着いてる。女が札束を詰め終わると、男はベルを鳴らし、銀行を後にする。彼の顔は見えない。彼の動作だけに注目すれば、それが強盗なのだということさえ判らないだろう。そのように彼はいつも扉を開け、その人の前に立ち、その人を見つめ、お金を、車を、あるいは心を、盗んでいく。そう、強盗も逃走も、恋も、まるで見つめるだけで成立させてしまうかのように。
彼が逃走中に出会った女性に語る言葉によれば、彼は強盗を働く前に周到にその場所、たとえば銀行を見て、そしてそこにいる人々を眺め、自分の気に入った人を見つけるのだという。彼はそうしてアメリカ中を旅し、その場所、人々を見つめながら強盗と逃亡を続ける。その逃亡によって「アメリカ」が、そこで過ぎ去っていく時間が見えてくるかのようだ。冒頭、逃亡する彼の車が壁の後ろに入り込み、別の車で出てくるまで、カメラはその白い壁の前で戯れる子供たちの姿を数秒ながらも丹念に映す。あるいは駐車場を通りかかる際に聞こえてくるカップルの諍い、テレビから聞こえてくるレーガン大統領暗殺未遂のニュース、銀行での仕事の初日を迎える女性や逃亡する際に乗り込んだ車の中の少年の顔。誰が眠っているのか、赤い夕日が照らす家の前の墓地。
そして見つめることによってひとりの女性、ジュエル(宝石)という名の女性に輝きを与えたりもする。シシー・スペイセク演じるジュエルは彼の前で、驚き、はにかみ、心ときめき、徐々に恋する女へと変化しながら輝きをましていく。
デヴィッド・ロウリーはこうしてロバート・レッドフォードの視線とその身体を通して、前作同様、時間を、歴史をゆっくりとスクリーンの中に蒸留させていく。
彼が盗んだ金で何を買い、何を食べ、どんな暮らしをしているのか、私たちはほとんど知らない。何かを食べにいくように、そして誰かに会いにいくように、当たり前さとともに挿入される強盗のシークエンスが、それらの場面に取って代えられる。「making living 生計を立てる」ためではなく「just living 単に生きる」だけだ、と彼は言ったそうだ。劇中で人々は彼を「The old man with the gun」と形容するが、原題は、『The old man & the gun』。「証明しないことこそ僕のスタイルだ」と語るように、彼が銃を手に持つ場面はほとんど映されない。銃だけに限らず、彼との関係においてすべては、「with」ではなく「and」なのではないだろうか。とびきり優秀な盗っ人でありながら、彼は何かを所有したりはしない。盗んだ札束も簡単に手放すし、金塊も大切に抱えはしない。ジュエルも彼を追うことになるケイシー・アフレック演じる刑事も、彼の虜になりながらも、常に彼「の」恋人や宿敵ではなく、彼「と」自らの関係において語られる。ケイシー・アフレックも、また同じようにただ生きることによって、彼を追い求め、たまに出くわすひとりの友人のように、彼らの人生が並列しながら、時に交わっていく。そして彼自身も、誰かのものになったり、ひとつの場所に留まったりせず、家族から、刑務所から、そして世界からも抜け出していく。
刑事の妻は聞く。「それで彼が誰かわかった?」
「ああ、今は老人で、以前は違った。ただ彼は強盗を楽しんでいるだけさ」
「そう、あなたと同じね」