『ワイルドライフ』ポール・ダノ
梅本健司
[ cinema ]
初雪が降り出す中、停車していたバスが出発する。ジョーにとって、初雪は山火事の消火に行っていた父(ジェイク・ギレンホール)の帰還を知らせる合図である。初雪を見た彼は、いてもたってもいられなかったのだろう、勢いよく、バスとは逆の方向に走り去る。カメラは、急ぐ彼とは打って変わってゆっくりとしたパンでそれを追う。そのゆっくりさがいい。速くカメラを動かさずとも、またカットを割らずとも、カメラを構えれば、あるいはゆっくり首を振りさえすれば必ず何かが映ると信じている、そういったカメラの態度がよかった。
『ワイルドライフ』はある三人家族のポートレートを描いている。映画で、肖像を描くとはどのようなことなのか。本作においては、まさに写真が重要な役割を担っている。主人公のジョー(エド・オクセンボールド)は父親が失業してから、少しでも生活を助けるために写真館で働くことになる。その写真館の主人のセリフが印象的だ。「写真とは善き瞬間を残すためにある」と。もしかしたら、この映画もそういった瞬間を切り取ろうとしているのかもしれない。でも、この映画には写真がほとんど登場しない。ジョーの母(キャリー・マリガン)と関係を持つ富豪ウォーレン(ビル・キャンプ)の別れた妻の写真くらいだろうか。けれど、それもはっきりと映されるわけではない。少なくとも、映画の中で撮影された写真が映されることはない。『ワイルドライフ』は、写真のようにひとつの瞬間を選び取ることは映画にはできないという態度のもとに撮られた映画なのだ。だからこその先述したカメラワークだと言える。カメラを構えていればそこには運動が映る、映ってしまう。善き瞬間も悪い瞬間もなく、すべてが何かの流れの中にある。山火事も、ちょっとした恋も、愛の苦悩も。そういった意味で、写真館の主人の件のセリフに続く、「幸せの手伝い」をすることは、映画にはできないのかもしれない。幸福も不幸も画面を通り過ぎていくだけだ。それを留めておく力はない。
そんな映画と同じような無力さを、ジョーも感じていたのかもしれない。ジョーが何かをじっと見つめる顔がよく映る。山火事も、父のリストラも、母の踠きも、時に目をそらしながらもジョーはそれらすべてを見つめている。それ以上のことは彼にはできない。そして、それは「山火事を前にして、何もできなかった」という父も、どうすれば幸せになれるのかわからなくなってしまった母も、同じなのだろう。
ジョーは父と、すでに離れて暮らしている母を写真館に連れてくる。家族三人が並んで、肖像写真を撮影するためだ。映画のカメラは、写真を撮るカメラと同位置に置かれる。幸福な関係とは言い難いが、それでも「幸せな瞬間」を残そうと母は笑顔を作る。けれど、やはり、ここでも画面が写真のようにひとつの瞬間を切り取ることはない。そして映画は終わる。
では、この映画が描いたのは不幸な家族の肖像なのだろうか。そうかもしれない。でも、同時に幸福な家族の肖像だとも思った。家庭の不和だけではなく、両親からジョーがアメフトや数学を教わる場面や、三人で食卓を囲む場面、ささやかながら大切な暮らしの断片が丹念に撮られていた。ひとつの瞬間を選ぶ肖像ではなく、そういったすべての時間がそこには含まれている。たまたま同じ劇場で上映されていた『快楽』(マックス・オフュルス)の一節を思い出した。「幸せとは悲しみだ」。その矛盾を受け入れることができるのが映画だ。