『帰れない二人』ジャ・ジャンクー
坂本安美
[ cinema ]
昨年、2018年カンヌ国際映画祭では、20世紀に立ち戻り、そこから現在へと遡及する作品が何本か見られた。『COLD WAR あの歌、2つの心』、『幸福なラザロ』、もちろん『イメージの本』もその一本として数えられるだろう。すべてが平面の上に浮かんでは消えていくような現在において、20世紀というすでにはるか遠くに思える時代に立ち戻り、21世紀との間にどうにか時間的遠近法を見出そうとする試みであるかのように。そして急速なスピードで壊されては開発され、瓦礫の中に再構築されていく中国において、この時代の行き着く先を20年近く見据えてきたジャ・ジャンクー。その12本目にあたる『帰れない二人』も2001年4月から物語がスタートし、これまでの作品の舞台となってきた複数の土地を再訪しながら、20年に亘る一組の男女の関係が描かれている。多様なジャンルや中国の伝統的な演劇、アクションを散りばめながら、変動する中国、世界を描こうとするおおいなる試みとあまりにも見事な舞台、物語設定に感銘を受けながらも、その中で、人物一人ひとり、彼らの関係が霞んで見えてしまう、正直、そんな逆説的な思いをジャンクーの作品に対して抱くことがあった。それに対して、最新作では、地方都市の顔役的な男ビン(リャオ・ファン)とその恋人チャオ(チェオ・タオ)、17年におよぶ彼らの関係、その移ろい、変遷がひたすら記録されていく。前半、ふたりの背景に地下組織が見え隠れし、マフィアの抗争を描く犯罪映画の様相を見せ、アクションの多い作品になっていくかと思いきや、映画は徐々にメロドラマ的要素を高めていく。しかしそれは燃え上がり、灰と化した後、そこに残る愛の残骸を生きるメロドラマである。
そしてキャメラは冒頭からなにものにも屈することなく、敢然と前に突き進んでいくチャオ・タオから離れることなく寄り添っていく(ちなみに撮影はオリヴィエ・アサイヤスやアルノー・デプレシャンの作品を多く手掛けるフランスのエリック・ゴーティエが担当している)。『プラットホーム』から約20年間、ジャ・ジャンクーと8本もの作品でタッグを組み、その一本ごとに堂々と、美しくなっていくチャオ・タオにこれまでも何度となく魅了されてきたが、今回ほど彼女の身体、顔に映画が委ねられたことはなかったのではないだろうか。愛する男のために自ら刑務所に入り、5年後に出たチャオを待っているのは以前の剛勇さは消え、消沈しきった男の恩知らずな態度だった。正視することさえできない男の卑怯さを前にしても怯むことないチャオ、窓の外にネオンが虚ろに点滅しているだけの殺風景なホテルの一室でどうしようもない距離を感じながら並び合うふたりをとらえるワンシーン・ワンショットのキャメラ、戸惑いと確信の間で揺れるキャメラの動きには胸が張り裂ける。自分たちの関係はこれで終わりなのか、絶望を前にしても尊厳を失うことのないチャオの姿をじっととらえていたキャメラがふと、なすすべもなくうな垂れている男の方に微かに近付き、ほんの数分、男のどうしようもない無念さに寄り添う。あるいは列車の中で偶然彼女と出会った男が咄嗟に人生を共にしないかとチャオに申し出、なにもなくなった女がそれを受け入れ、ふたりで旅を続けるほんの短い時間、ありえたかもしれないもうひとつの物語、あるいはふと作品の中に出現したその男の人生が垣間見える。一瞬、一瞬を、その場所、その場所を自ら選び取っていくチャオとともに進みながら、その周囲に流れる別の人生、別の感情をも掬い取り、そこから逆に彼らの生きる世界が立ち上がってくる。それはこれまでジャンクーの作品でも記録されてきた大同、あるいは奉節、三峡ダムであり、そこに生きる人々である。(本作では、過去の作品の撮影時に撮られながらも使われなかったラッシュ映像が使用されてもいる)。
「二度と閉じることのない、ぱっかりと空いた傷跡、現代の象徴であるような」(*)巨大なダム、その建設のために街を追いやられた人々、そして大河の中に呑み込まれ、消え去り、忘れ去られた人々の闘争、苦悩が、ペットポトルを唯一の武器に歩み続けるタオと共に、この偉大なる映画に刻まれていく。
そして男は戻ってくる。愛の、世界の残骸の上にふたたびふたりで立つために。
(*)仏紙「リベラシオン」掲載のジャ・ジャンクーのインタビューより。
2019年9月6日(金)よりBunkamuraル・シネマ、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー