『寝ても覚めても』濱口竜介@YCAM
渡辺進也
[ cinema ]
上映前のレクチャーで、YCAM(山口情報芸術センター)で通常映画の上映をしている(ミニシアターのような)Cスタジオと、映画の上映のための施設ではなく、むしろ舞台などがメインで使う広い空間である(爆音映画祭の会場でもある)Aスタジオの2ヶ所で『寝ても覚めても』のいくつかの場面を聴き比べる。
Cスタジオがスクリーン正面、右、左。サイドの壁、重低音用など6~7個くらいのスピーカーを使っているのに対して、今回Aスタジオは60個くらいのスピーカーを使っているとのこと。説明を聞いてもどう数えるのかがわからなかったのだけど、スクリーンの横にも、スクリーン前方上にも。背後、左右にはずらっと等間隔に並び、あとは天井からも4つほどぶら下がっている。席の下にも置いているそうで、まさに客席を囲むようにたくさんのスピーカーが置かれている。
ふたつの上映場所で、『寝ても覚めても』からの抜粋のひとつ、防潮堤の上から聴こえる波の音を聴き比べて受けた印象は、音の量が多くなっているということだった。それはひとつの音が増幅されて大きくなっていると言うことではなく、波や風の音が膨大な数の総体としてあってその数が増えていると言うことである。ひとつの粒が大きくなっているのではなく、粒の数と種類が多くなっているというようなイメージ。
上映前のレクチャーで『寝ても覚めても』の音の特徴として話されていたのは、ひとつの場面の中でさえ音が徐々に大きくなったり、音が現れて、また消えたりしているというように変化が多いということ。また、冒頭の美術館のシーンから空調の音なのか、ブーンという環境音がずっと聴こえてくるということ。そして、一見納得しがたく思える朝子の行動が耳を澄ましてみれば一本筋の通ったものになっているのがわかる、というなぞかけを残して上映が始まる。
「似た顔をしたふたりの男を愛す」という内容でありながら/だからこそ、視覚的な情報だけを根拠にこの映画はつくられていない。最初の麦とのパートなんて朝子はほとんど何も見ていないのではないかとさえ思う。その後の良平と出会ってからのしばらくの会話もちゃんと聞いているのかと思ってしまうほど、すごくぼんやりしている。そもそも朝子が人の顔をちゃんと見ない人だからこういう物語になってしまっているのではないだろうかとさえ思った。
そのかわりに。音が相当につくりこまれている。冒頭の美術館の場面にて、麦のハミング、エスカレーターのモーター音、麦の足音、川辺の風の音、そして流れる劇伴の音楽。まるで催眠術にかかったかのように彼女は音についていってしまうのだが、それらの音は強弱を伴いながら、ときに重なりながら順番に現れては消えてゆく。また、それらのある音が彼女の身体の中に残ったかのように、聴こえるか聴こえないかといった音量で、至るところでその後も現れているのではないか。それは防潮堤にて、雨で水量が増した川を見下ろすベランダにて、はっきりと現れ、あるいは部屋やアスレチックジムで、車やバスの中で間違いなく聴こえている。
昨年何度か劇場でみた『寝ても覚めても』でそうした音が聴こえた記憶がない。というか、この些少さ?繊細さ?には、一般の映画館で気づくはずがないというレベル。しかし、音の存在がこう如実に現れるとそれは自然に聴こえる/聴こえないように作り込んだ作り手の意図が明らかにある。『寝ても覚めても』の印象が変わった。
YCAM爆音映画祭2019 8/29~8/31
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