京都滞在日誌2019@ルーキー映画祭①
隈元博樹
[ cinema ]
2019年9月6日(金)
もう何年ぶりかの京都。新横浜駅から新幹線「こだま」で約3時間の移動を経て、京都駅に着いたのが午後3時ごろだった。先週訪れた帰省先の福岡もひどい暑さだったけれど、ここ京都も引けを取らないほどの残暑に見舞われている。秋と言うにはまだまだ程遠いようだ。今回の滞在はグッチーズ・フリースクールと8/23にリニューアルしたばかりの京都みなみ会館による「ルーキー映画祭」なので、「初心、忘れるまじ」と自戒の念を込め、言わばルーキー気分で短い滞在日誌を付けてみることにした。
京都駅からの地下鉄を乗り継ぎ、東西線の二条駅に降り立つ。宿泊先のホステルをGoogleマップで調べたところ、徒歩20分以上先であることを知り、愕然とする。仕方なくホステルのある千本通り沿いを歩きつつ、通りに広がる町屋造りの飲食店や雑貨屋に目を配らせていくことで何とか残暑を紛らわすよう努める。
宿泊先の「オトロムンド」は2階建ての日本家屋をリノベーションした施設。外国からのゲストが多いらしく、受付は英語での対応も可能、スタッフも懇切丁寧だ。広間の奥には縁側が設えられており、これで吉田健一の『時間』さえ手に携えていれば『自由が丘』の加瀬亮になれそうな気分。チェックインを済ませたあとはブラブラと近くを散歩し、喫茶「BON」の表看板に書かれた「ヤキメシ」に惹かれ、遅めの昼食を摂る。西に生まれ育った身としても、チャーハンではなくヤキメシという表記はグッとくるもので、ものの数分で平らげてしまった。その後ホステルの裏手に「千本日活」の看板を発見。ピンク3本立てで600円と書いてあり、今回の目的を一瞬忘れそうになる。(「千本日活」はいずれまた......)
さて、「ルーキー映画祭」である。丸太町駅から九条駅にたどり着き、1本目の『スラッカー』(リチャード・リンクレイター)に滑り込みで駆け込む。東京上映の際に観る機会を逃し続けていたので、京都で観られるとは思っていなかった。テキサス州オースティンの田舎町を舞台にした群像劇は、すれ違う人物たちが絶えず会話を交わし続けていくことで生まれるコンセプチュアルなリズムに支えられている。加えて、のちに「ビフォア」シリーズにおいても顕著となるツーショットを保持したキャメラワークの実験が、このときからすでに行われていたことも頷ける。それにしても後半でマイクを提げて歩くおじいさんのような哲学を当たり前のように撮ってしまうリンクレイターには脱帽しかない。当時30歳前半だと思うのだけれど、このセンスは凄まじいと思う。
2本目はトレイ・エドワード・シュルツの『クリシャ』。過去の過ちにより精神を病んでいた厄介者のクリシャおばあさんが、息子の参加する家族の集まりに姿を現すことで巻き起こる悲劇を描いたフィルムだ。冒頭からの長回しや耳障りな効果音によって進行する不穏な画面構成の一方で、腕に縒りをかけた七面鳥料理をクリシャが落としてからの展開は、かなりのヒューマニズムな問題提起として迫り来るものがある。過去はけっして変えられたり忘れることはできないけれど、これほどまでに救われないというのはさすがにつらい。そのことはクリシャおばあさんを正面に捉えたファーストショットとラストショットの顔そのものにも刻まれているようだった。また、上映後のトークで本作の字幕を担当された上條葉月さんも話していたが、七面鳥を落とした場面でニーナ・シモンの「Just In Time」を流すあたり、シュルツはかなりの曲者だと言っていい。本来ならば『ビフォア・サンセット』でジュリー・デルピーがイーサン・ホークを引き留める際に流れる曲だったのになあ......。
そして本日最後はポール・トーマス・アンダーソンのデビュー作『ハードエイト』。フィリップ・ベイカー・ホール、ジョン・C・ライリー、グウィネス・パルトロウ、サミュエル・L・ジャクソン、そしてフィリップ・シーモア・ホフマンという豪華なキャスティングなのだが、本当にみな若くて瑞々しい。とくにブレイク前後であろうパルトロウの生娘感たるや!そうか、「ルーキー映画祭」というのは、何も監督だけでなく出演している俳優たちの若さを集めた映画祭でもあるということだ。しかし、ジミー(サミュエル・L・ジャクソン)からの脅迫で奪われた財産を力ずくで取り返しに行くシドニー(フィリップ・ベイカー・ホール)の行動こそ、ダンディズムの裏側に潜む若さそのものを体現していたように思う。
上映後は1次会、2次会の打ち上げにも参加させてもらい、ほろ酔い気分のままに四条烏丸からホステルへ戻ったのが午前4時ごろ。スッと部屋の窓から入ってくる夜風に包まれて、長い1日目の滞在が終わった。