『アラビアン・ナイト』ミゲル・ゴメス
田中竜輔
[ cinema ]
*2015年の広島国際映画祭及び関連上映企画にて上映されたミゲル・ゴメス監督『アラビアン・ナイト』が、「イメージフォーラム・フェスティバル2019」にて再上映されます。それに際しまして「NOBODY ISSUE45」所収の『アラビアン・ナイト』評を掲載します(再掲にあたって一部改稿を施しています)。同45号には本作についてのミゲル・ゴメス監督インタヴューも掲載、ぜひ上映に合わせてお読みください!
シェヘラザードはボートに乗って
『千夜一夜物語』の語りの形式を借りて、ポルトガルおよびヨーロッパの現状をめぐる寓話を語る、6 時間強に及ぶ『アラビアン・ナイト』には、劇映画として撮られたことが明白な場面も、現実のポルトガルでの出来事に直接カメラを向けた場面もある。本作における撮影チームには映画専門の技術者ばかりでなく、実際に現地メディアなどで働くプロのジャーナリストがいて、彼らによるポルトガルの現状についてのリサーチが、脚本の内容や撮影対象の選別に影響を及ぼしたことは監督のミゲル・ゴメスによって公言されている。このフィルムの冒頭、入港する一艇のボートの上から捉えられた湾岸労働者たちと彼らが織り成すデモも、その最初期に出会った出来事のひとつであったに違いない。「このフィルムの主役は共同体だ」というのは、「カイエ・デュ・シネマ」に掲載されたミゲル・ゴメスのインタヴューのタイトルだ。
現代ポルトガルの現状に直面したミゲル・ゴメスは、ここからいったいどんな映画を作ればよいのかわからないと告白し、撮影現場をダッシュで逃げ出す。このちょっとだけコミカルでメタな場面を境に、『千夜一夜物語』のシェヘラザードが語り部に据えられる。自身の妻の不貞から女性不信となり、毎晩城下の若い娘と一夜を過ごしたのちに彼女たちを殺していた暴君シャフリヤールの横暴を止めるため、大臣の娘でありながらも彼のもとに赴き、夜毎に興味深い様々な話を語ることで彼を改心させたシェヘラザード。物語を語り続けることが権力への抵抗そのものとなり、そしてそれを掌握する武器にもなることを体現した彼女の召喚をもって、ミゲル・ゴメスは自身の姿を画面上から撤退させる。
だが、そもそもなぜここで語り部の譲渡それ自体が映像化され、映画の一部分に組み込まれなければならなかったのか。どうしてたんにシェヘラザードを最初から語り部に置くだけでは不十分だったのか。それはもちろん、この映画がいかなる態度において世界にカメラを向けているかにかかわるのだろう。ミゲル・ゴメスは、自身の周囲に広がる様々な出来事をそのままに提示できると信じる無垢なドキュメンタリストでも、あるいは寓話を十全に映像化・音響化する強固なファンタジーの守護者でもない。目の前に広がる現実に、ある種のフィルターをかけるような他者を必要とし、そしてその他者のまなざしの借用のうえで、「もうひとつの現実」としての寓話を語ること。長大な上映時間を通じてこの『アラビアン・ナイト』に賭けられているのは、そのような方法でなければ見出すことのできない何かを刻印することなのだ。
しかし実際にはシェヘラザードへの語りの譲渡以前、冒頭における小舟の入港の場面からすでに、そのような態度は示唆されていたのではないか。かつてロバート・クレイマーは『ルート1 / USA』(1989)の冒頭で、ドクというひとりのフランス人がアメリカに降り立ち、そして歩みだす姿を、岸辺から離れ行く船上から捉えた。離れゆく船の運動は、岸辺に残されたドクがまぎれもない異邦人であり、彼が(つまり『ルート1 』という作品自体が)未知なる他国へと今まさに足を踏み入れたことを十全に示していた。一方、『アラビアン・ナイト』の冒頭場面は、それとどこか似ているようで、舟から降り立つ人物を映し出さない点において、決定的に異なる趣きをそこに備えている。冒頭の場面における舟上の視点とは、たんに外(=海)から訪れた者の視点であることを意味するだけでなく、この映画がポルトガルという内(=陸)との間に明白な距離を挟んだ視点、陸に立つ人々と決して同じ高さではない視点をもつことを刻印している。さらにシェヘラザードが初めてこのフィルムに姿を現す場面では、バグダットの入り江へとボートに乗って「入国」する様子が描かれる。つまり、先ほどのポルトガルへの上陸場面が、ここではバグダットにその場所を変えて反復されているのだ。
『アラビアン・ナイト』は、映像にそのまま認められる社会的な現実をリアリズムの担保とするような映画ではなく、一方で完璧に寓話化された時空に映像を埋没させることも拒絶している。それら異なる水準でつくられた映像は、つねに隣り合うものとしてあること、互いが決定的に異なるものとして示されることが重要である。そのうえで、それぞれがそれぞれの領分を絶えず侵し合うように、ある固有の事物としてではなく、無数の事柄の混合物としてこの映画はかたちづくられる。そのためにポルトガルというディストピアへの自身の入港を、バグダットというユートピアへのシェヘラザードの入港に置き換える大胆なやりかたをもって、ミゲル・ゴメスは自身からシェヘラザードへの語りの譲渡を示す。
そのときシェヘラザードとは、『千夜一夜物語』の「あのシェヘラザード」の威光を借りるだけで振る舞うだけでなく、現代の「このシェヘラザード」として、自らの行いの内にその存在を問い直すことを強いられた者の名となるだろう。その継続と挫折の繰り返しのなかに、このフィルムの中で最も悲痛で、しかし美しく、そして果敢な試みが映し出される。それは第3 部の中盤、過激化するデモの映像に重ねてオフのナレーションによって語られる、ひとりの中国人女性のエピソードである。
民衆による権力への苛烈な抵抗が渦巻くなかで、自身の孤独な悲劇―ポルトガルで出会った男性との間に子供を授かるも、男は彼女から離れ、彼女はたったひとりでポルトガルに残って生活している―を静かに語るこの女性の中国語は、まぎれもなく現代のシェヘラザードの声を有している。嘆きとも怒りとも区別のつかない群衆の声の渦巻くなかで、個としての悲しみだけを孤独に表明する(群衆のオンのざわめきは、彼女のオフの声とまったく絡み合うことがない)も、彼女は映像が示す現実において形を為すことはない。ひょっとしたら彼女はその群衆のなかにまぎれていたのかもしれない。けれどもカメラはそれを証明することなどできない。だが、こうも言えるのではないか。彼女はそのような民衆のただ中に自らの身体を消し去ることによってこそ、自らのか細い声の響きに、自身の闘いを託すことができるのだ、と。
ミゲル・ゴメスは、このフィルムの同年に制作された短編『贖罪』において、様々な国の様々な記録映像をモンタージュすることでつくられたイメージの上に、4 人の現実の権力者たちの架空の手紙のナレーションを重ねるという手法で、ヨーロッパの歴史を語るという試みを手掛けている。もしも『贖罪』が、そして『アラビアン・ナイト』がポルトガルやヨーロッパの現状をただそのままに見つめようとした作品であったとすれば、そこには一切の寓話は不要だっただろう。あるいは現実を材料にした寓話をそれとして実現することだけが目論まれたのなら、現実を映し出した場面などそこに一切必要なかったはずだ。現実に端を発しながらも、実際にはまるで関係のないはずの映像と音響の最中で、つねに引き裂かれた状態としての「もうひとつの現実」を生み出すもの。そのような孤独な存在の別名こそがシェヘラザードであり、そして『アラビアン・ナイト』が体現する映画なのである。
そしてこうも言えるだろうか。『アラビアン・ナイト』はただひとりのシェヘラザードから出発し、あらゆるエピソードにおいて無数のシェヘラザードを次々と生み出してゆくフィルムであると。ときにそれは腸なしの殺し屋のことであり、判決を下すことのできない裁判官であり、鳥のさえずりに耳を委ねる者たちであり、様々な飼い主のもとを彼らの都合で転々とさせられる一匹の犬であり、裁判にかけられる鶏である。誰もが現実の現実らしさだけにも、虚構の虚構らしさだけにも頼ることはできない。彼らは理解することのできない言語に耳をすませ、虚構に脅かされる現実と現実に引き裂かれる虚構のあいだに身を委ね、他なるものの言葉を自らの声にして発する。ただひとりの「あのシェヘラザード」にすべてを委ねるのではなく、自らが「このシェヘラザード」として戦うために、誰もが積極的に孤独を生きる。『アラビアン・ナイト』は、そんな無数の個の闘争を舟の上の視点から見つめている。
「イメージフォーラム・フェスティバル2019」にて上映あり
9/15(日)13:00〜 会場:シアター・イメージフォーラム
9/23(月)10:40〜 会場:スパイラルホール