『旅館アポリア』ホー・ツーニェン@あいちトリエンナーレ2019
隈元博樹
[ art , cinema ]
展示会場である愛知県豊田市の「喜楽亭」は、明治時代後期からつづいた料亭旅館であり、大正末期を代表する町屋建築として知られている。戦前は養蚕や製紙業、戦後は自動車産業と深く結び付く要人のための社交場だったらしいが、戦中は神風特攻部隊である「草薙隊」の若者たちが同市の伊保原飛行場から沖縄戦へと出撃する最後の夜に宿泊した場所でもあったという。現存する建物は1983年に復元移築されたものだが、シンガポール出身のホー・ツーニェンは、こうした喜楽亭や草薙隊の史実を導入部分に、軍報道部の映画班員として戦中のシンガポールに駐留していた小津安二郎の諸作、あるいは陸軍の報道班員としてジャワ(インドネシア)に派遣され、軍部からの依頼によって「フクチャン」シリーズを製作した横山隆一作品からのフッテージ、また計100トラックからなる音響と展示空間に轟く振動効果によって、戦時の足跡を改めて考証するための場へと置き換える。つまり『旅館アポリア』とは、既存の映像素材や音響装置を通して、日本が置かれた当時の状況や実情そのものへと誘うための、言わばタイムマシーンのような作品であることがひとまず言えるだろう。
上下階の和室に設えられた3つの間の展示映像と、戦闘機のエンジン部分を模した巨大送風機のインスタレーション。複数のスクリーンとスピーカーが設置された展示映像の間には、「波」「風」「子どもたち」のテーマがそれぞれに配され、映像はおもに映画作品からのサンプリングや草薙隊にまつわる数多の資料によって構成されている。ただし、小津や横山作品のサンプリングに登場する人物たちの顔は、事後の処理によってあまねく塗りつぶされており、笠智衆や原節子、そしてフクチャンまでもが「のっぺら坊」の容貌と化している。また、それらの映像に加え、「親愛なる○○」から始まるツーニェンと3名のリサーチャー (YOKO、TOMO、KAZUE)とが交わしたメールや参考文献の引用箇所が読み上げられ、本作の製作過程そのものさえも作品の一部として存在しているかのようだ。こうして各々の表情や自己を剥奪された匿名の「誰か」は、時に画面から聴こえてくる声の主のように、また時に戦時を生きた体験者であるかのようにして、画面の中にシルエットを残しては消え、消えたかと思えばふたたびうっすらと姿を現す。まるで彼らは、過去を知る証人であり、今はもうこの世には存在しない亡霊として、喜楽亭に設置された画面の中を朧気にたゆたっていくのだ。
ツーニェンと3人のリサーチャーが交わしたメールや参考文献は、「虚無」と題された巨大送風機の間においても重要な役割を果たしている。たとえば『善の研究』を契機として大東亜思想を唱えた西田幾多郎や、西田に師事した高山岩男、高坂正顕、西谷啓治といった京都学派の学者たち、また京都学派の秘密会合を詳細に記録した大島康正による「大島メモ」、さらには谷崎潤一郎が謳った虚無に関する考察の一部始終が、迫り来る扇風機の轟音とともに紡がれていく。展示映像の間では障子からけたたましく湧き起こる波の飛沫や吹き荒ぶ突風、送風機の間では格子に伝わる轟音のなか、見えるものと聴こえるものに身体を晒された私たちは、いつの間にか生きたことのない戦時の只中に放り込まれたかのような錯覚にさえ囚われることとなるだろう。
思えば、タイトルの「アポリア」(=aporia)が示してあるとおり、本作の登場人物たちは、根差した行為とそこに伴う結果との相矛盾する現実に翻弄されて生きてきた人々に他ならない。映像に引用された『秋刀魚の味』での一場面、偶然バーで再会した駆逐艦の元艦長と元乗組員が「軍艦マーチ」を声高らかに合唱したのち、「日本はどうして負けたんですかね」「けど負けてよかったじゃないか」と述懐する姿を描いた小津安二郎。軍部のプロパガンダ映画をつくるためにアニメーション技術が使用され、「今もなお国家の要請があれば、プロパガンダをつくるだろう」と戦後のインタヴューで語る横山隆一。当初は「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」と提唱された大東亜思想が、次第に大東亜戦争を励行するためのナショナリズムとして標榜するに至った京都学派の面々。そして、「お国のために」という教育を受けつつも、最後は「お母さん」と叫びながら沖縄の地に散っていった草薙隊の若者たち......。反近代主義を掲げた思想や新たな作品を生み出す行為こそが、忍び寄る軍国主義を結果的に推し進め、やがて選択の余地を失われた庶民たちは、出口の見えない行き詰まりの中で戦争へ加担することを余儀なくされる。そうした行き場のないアポリアな構図が、ツーニェンの強度な意図として如実に込められている。
モダニズムの行き詰まりや新たな思想を提言する、あるいは自らの行為を尊重するがゆえに、意志に反した戦争を肯定せざるをえなくなってしまったことの悲劇。つまり『旅館アポリア』を通して日本が歩んだ当時の言説や状況に触れたならば、もはや過去に始まり過去に終わったことでは済まされない。戦争の是非が問われる今、脅かされつつある事態として素直に受け止めなければならないものがある。だからこそ錯覚なのではない。喜楽亭の『旅館アポリア』を体験することで、私たちは焦る必要がある。同じ過ちを二度と繰り返さないためにも。