『典座ーTENZOー』富田克也
結城秀勇
[ cinema ]
『サウダーヂ』以降、富田克也が監督する長編劇映画は、先行する「リサーチ」の成果物と対になっている。『サウダーヂ』に対する『Furusato 2009』、『バンコクナイツ』に対する「潜行一千里」(『映画 潜行一千里』も書籍の『バンコクナイツ 潜行一千里』もある)。「リサーチ」は出来上がった劇映画のいわばパラレルワールドのようにも見えて、同じ話題が繰り返されたり(『サウダーヂ』のモール建設予定地で目撃されるUFO)、深く語られることのなかった細部への言及があったりもする(『バンコクナイツ』のパヤナーク)。
だが、これまでずっとなんとなく気にかかっていたのは、「リサーチ」の結果として見えてくるものよりも、それを元に書かれた脚本によって出来上がった劇映画の方が、よりいっそう「悲劇的」な色合いを備えているのはなぜなのだろう、ということだった。製作の過程からさまざまな人を巻き込んで話題が広がり、公開後もさらに長い時間をかけながら人と人とをつないでいった『サウダーヂ』は、なぜあんなにも、孤立した人々の物語だったのだろうか。それに一応の答えを出すなら、動きつつある情勢の把握=「リサーチ」をその時点で作品化するためには否応ない切断が必要とされるから、あるいは逆にフィクションとして作品化された一本の映画の単位を越えて、情勢は変化し続けるからだととりあえずは言える(『サウダーヂ』で被写体であったスタジオ石が次作以降でスタッフを務めるように)。
62分という、無理矢理長編と呼ぼうと思えば呼べなくもない(でもまあ中編だろう)長さを持つ『典座ーTENZOー』は、劇中に差し挟まれる青山俊董との対話を核としてシナリオ執筆が進められていったのだという。そうした意味で、先行する「リサーチ」を元に劇映画を作るという方法は本作でも踏襲されているとも言えるし、同時に「リサーチ」がシナリオによるフィクション化のフィルターを介さずに劇中に登場する点では、『サウダーヂ』『バンコクナイツ』とは異なってもいる。『典座』という作品の中で「リサーチ」と「劇映画」は互いが互いを追い越すように展開していく。この中編とも長編とも、フィクションともドキュメンタリーとも言いがたい作品を前にすると、富田克也作品にある謎の核心に触れる思いがする。すなわち、「リサーチ」の時点ですでに充分に"映画として"おもしろい素材を、なぜあえて「劇映画化」するのか。またその際に、なぜまるで自らの身に起こった出来事を反復しなおすように、当事者が役者として演じることが求められるのか。
『典座』の冒頭、まだ観客がこれはフィクションなのかドキュメンタリーなのか判別もつかないうちに、青山俊董のナレーションがこう告げる。禅には二種類あると。ひとつは狭義の禅であり、すなわち悟りを得るということ。もうひとつは、道元が説いたように、日々の生活のささいな事柄も含めたあらゆるものをかけがえのないものとして、一瞬一瞬を大事に生きることだと。悟りとはなにか、などという大それたことをここで論じるつもりはないが、なんとなく一回悟っちゃえばもう迷うことなしオールオッケー、みたいなイメージを抱いていた私のような人間にとって、なにも悟りとは一回限りの不可逆な変化ではなく、日々の絶えざる変化の中で取り続けるべき姿勢のようなものであるとは、目からウロコの話だった。そしてそのことは前述した、なぜ演技をするのか、しかも必ずしも演技をプロフェッションとしない者によって演じられる必要があるのか、ということと少なからず関わっている気がするのだ。
かつて道元が修行した中国浙江省の天童寺を訪れて帰ってきた智賢は、福島にいる友人の僧・隆行に、豊かな自然に囲まれた天童寺での体験が得難いものだったと語る。対して隆行は、智賢の地元である山梨もまた自然に囲まれた地域ではないかと指摘するのだが、それに智賢はこう答える。「日常から離れた異国情緒が大切なのかもしれません。永続しないからこそ。悟りとはそれに似た部分があるかもしれません」。
「悟り」が「異国情緒」に似ているとはすごい発言だ、と思う一方で、この発言は『サウダーヂ』『バンコクナイツ』と発展し自作以降も続いていくであろう方法論の核心を突いた言葉であるようにも思える。『サウダーヂ』の時点ですでにタイは楽園でもなんでもないことが語られていたにもかかわらず、『バンコクナイツ』のオザワがそれでもタイで楽園を探すのはそれゆえではないのか。ここで語られる「悟り」や「異国情緒」とは、富田作品の非職業俳優たちにとっての演じることそのものではないのか。彼らは日々の生活で繰り返した会話や行動(「夕顔で夏を感じるなんて、すっかりこの辺の人だね」)を、その習熟ぶりを根拠に「悟り」=永続化するために演じるのではなく、自分たちの日常を「異国情緒」に変えるため、「悟り」=一過性のものへと変化させるためにこそ演じる。その作業を通じて、自らの置かれた状況を初めて人は認識できるようになるのではないか。帰国した知賢が地元山梨の大地を踏みしめることの重要性に気付くように。
と同時に、彼らがなにも我々観客の代わりにそうした作業を行ってくれているわけではないことにも意識的でなければならないだろう。「他は是れ吾にあらず」。突然のシネスコへの画郭の変化とともに、富田をはじめとする撮影クルーたちがわざわざ画面に姿を見せるのはまさにそのために他ならない。