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October 16, 2019

『十字架』テレサ・アレドンド、カルロス・バスケス・メンデス
新谷和輝

[ cinema ]

 チリの映画で「1973年9月11日以降」を扱ったものと聞けば、おおよそのイメージがすぐに思い浮かぶ。アジェンデ政権を破壊したクーデターの衝撃的な爆撃映像、その後の独裁政権下で次々と行方不明となった市民たち、彼らを探して今なお苦しむ遺族......。これらのイメージが定着しているのには、パトリシオ・グスマンが自身のライフワークとして発表してきた作品群で、チリの「被害の歴史」を繰りかえし描いてきたことが大きいように思う。『チリの闘い』では、敵対勢力に雄弁に立ち向かい敗れる民衆の姿が記録され、『光のノスタルジア』では、アタカマ砂漠をさまよい肉親の遺骨を探す女性たちが、星を探す天文学者の営為と重ねられた。強大な権力による抑圧とその被害の記憶を、時には雄大な自然の美を用いて詩的に語ることをグスマンは試みてきたが、彼の視点は一貫して被害者の側にあった。グスマンと同じような目線で、クーデターとそれにまつわる暗い歴史というのは何度も映画で扱われてきて、このテーマにおける語りの型はもう完成しているように私は思っていた。
 だから、クーデターから数日後のチリ南部の小さな村で起きた、製紙会社の労働者の大量殺害事件を扱っているこの『十字架』というドキュメンタリー映画も、観る前までは、おそらくこの型にはまるもの、つまり被害者たちの声を中心に構成されるだろうと勝手に推測していた。しかし、実際はまったくちがっていて、この映画に事件の被害者や遺族の姿はほとんど出てこない。代わりに主役となるのは、事件の加害者である警察や兵士たちだ。といっても、加害者たちの姿はこの映画には一度も映らない。彼らが法廷で証言した言葉だけが裁判記録をもとにして次々と読み上げられ、そこに事件の起こった町の風景が重ねられていく。
 この映画で一番重要なのは、この加害者の証言がどのようにして読み上げられていくかだ。まず、証言の読み手はその本人ではなく、別の人物である。証言が読み上げられる前には、必ず「私は○○(読み手の名前)です。□□(加害者の名前)の証言を読み上げます」という前置きがあるが、朗読者についての情報はこれだけで、それがどんな人物なのか、事件とどのような関係があるのかはわからない。ふたりの監督は上映後のトークで、事件が起こった町の出身者や、犠牲者の遺族が探してくれた人に朗読を頼んだと言っていたが、つまり、事件と直接的な関係のない人をあえて選んでいるのだ。この姿勢は、監督がトークでも映画祭カタログの解説でもしきりに話している、この映画の「倫理」と関わっている。彼らが映画を作るにあたって最初に決めたのは、犠牲者の遺族、つまり事件の当事者に決して朗読をさせないということだ。それは、すでに苦しんでいる彼らをさらに傷つけないためであり、そして、これまでのチリ映画で「被害者の声」として繰り返し表象され、利用されてきた彼らを守るための最低限のラインだったという。
 しかし、加害者の証言を非当事者に代弁させるというこの手法は、被害者を守るためにしょうがなくとった選択ではなく、公的な歴史や記録として凝り固まった証言を、私のような非当事者の観客にむけて開いていくための戦略となっていることもはっきり言いたい。朗読者の読み方は淡々としていて感情の起伏も少ないが、そのぶん加害者の人間的な微細な心の動揺や不安が、裁判記録の隙間からゆっくりにじみでてくる。そうして、警察や兵士は必ずしもすすんで虐殺に加担したわけではなく、理不尽な命令に従っているうちに人を殺してしまったこともわかってくる。そして、これが素性のよくわからない朗読者によって代読されることで、それを聞いている観客は、この証言をある特定の人物のうちに閉じ込めることができず、どこか自分にも関係してくるような、居心地の悪さを覚えるのだ。朗読に重ねて示されるのは事件の起こった町のなんでもない日常風景で、その光景は証言とは裏腹の平凡さゆえに次第に恐ろしく感じられる。それは、証言の音声が、画面に映る町の過去の歴史を語るものであると同時に、この町か、またはどこか他の同じような場所で起こるかもしれない、未来の出来事を予言するものともなりうるからだ。映画の終盤で示される誰のものともしれないたくさんの十字架が、証言の音声を聞いたあとでは、さらにどんどん潜在的に増幅していくようにみえるのは気のせいだろうか。そうした不気味さは、映画館を出た後の私たちの日常風景にも地続きにつながっていく。この映画で唯一牧歌的で幸せな瞬間である冒頭のカップルの水浴びの映像で、彼らが水面に広げる静かな波紋からしてすでに、そのような予兆を孕んでいるように感じられる。
 歴史を語り継ぐとか、記憶を紡ぐということは、こうした間接的な鈍い痛みを伴いながら、それでも何かを語る行為なのだ。『十字架』は、被害者を抵抗の象徴に祭り上げることもせず、また加害者を断罪するにとどまるのでもなく、私たちが過去と向き合うときに避けては通れないプロセスを映像と音声で示している。終盤の映像には白い傷のようなものがついている箇所があるが、これはフィルムの現像の段階で偶然ついたものらしい。私には、この傷はこの映画ができあがる過程で必然的についてしまったものに思えた。監督がこの傷ついた映像を使ったのは、単なる映像上の効果のためではない気がする。この映画を見た私にも、捉えようのない傷が身体のどこかに残されている。その傷をさらなる他者と共有するための方法を、私も探っていきたい。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2019、インターナショナル・コンペティション部門にて上映