『宮本から君へ』真利子哲也
結城秀勇
[ cinema ]
宮本(池松壮亮)という男がわからなくなる。と言っても、別に彼の気持ちだとか感情だとか性格だとかがわからないと言いたいわけじゃない。わからないのは顔だ。時間軸が激しく前後して進むこの作品で、前歯のない宮本、目にアザをつくった宮本、左手にギプスをはめた宮本、なんだか知らないがいきなり声が嗄れてる宮本、とさまざまなレイヤーで損傷したり修復したりする宮本を見ていると、ふと無傷でなんの変哲も無いスーツを着た宮本が出てきたときに、あれ、こいつこんなヤツだっけか、と思う。どっちがデフォルトだったのかわからなくなって、軽くゲシュタルト崩壊する。
気持ちがわからないと言えば靖子(蒼井優)の方なんだろうが、宮本の両親に挨拶するシーンは猫を被っていたのかもしれないにしろ、ゴーヤチャンプルつくりながら「悪女」を鼻唄した直後の、裕二(井浦新)の登場とともに豹変する(?)靖子を見て、まったくわけわかんねーがこういうことなんだろうととりあえず納得していたはずが、気づけばこの作品の中核をなす「問題」がとりあえず出揃った後の、会社に宮本が乗り込んできていきなり「結婚して出産しよう」と叫びだす場面では、もうどちらかといえば靖子目線でこの作品を見てしまう。笑っていいのか、怒っていいのか泣いていいのか悲しめばいいのか叫べばいいのかまったくよくわからなすぎて、笑ってしまう。
この作品の複雑な構成は、時系列通りに描くなら、ふたりの男女が出会い交際を始め、なんかとにかくいろいろ大変なことがあるけれど、出産して家族をつくる、といったような物語をどこか「復讐譚」のようなものに見せる。それまで語られてきた内容の中で伏せられてきた「問題」が中盤に出そろい、あとはそれにどう落とし前をつけるのかが問題になる。だが、その「問題」を「解決」することなんてほとんど不可能なんじゃないのか、と見ている最中には半ば絶望的な気分になる。それは、「問題」自体があまりにひどい出来事でたとえどんなことが起こってもそれをなかったことになんかできないからというだけではなく、また作劇としてたんなる靖子の気持ちの問題として「解決」したところでなにひとつスッキリなどしないからだけでもない。この「問題」は、それ自体が理不尽な暴力や搾取の表れであるから解決が不可能だ、というだけではなくて、暗に、宮本と靖子の双方が「約束を守れなかった」ことと結びついているからこそ、解決が不可能なのだ。宮本の「靖子を守る」という言葉は、なにひとつ行為として現実化しなかったことが明らかになる(さらに言えば、物語の時系列上は「復讐」以降の出来事であるはずの、靖子の両親への挨拶のシーンでさえ、宮本はまた相も変わらず前後不覚に酔いつぶれてしまうのだ)。それだけではなく、そんな宮本をなじる靖子でさえもが、彼女が父親と交わした約束を守れなかったことが「問題」の露呈以前に語られることは大きな意味を持つ。言葉が、行為にも心理にも密接に結びつくことができない、宮本と靖子を中心とした約束の果たされざる世界において、「復讐」を誓いそれを実行することになど、どれほどの効果が期待できるのだろうか。「復讐」のプロセスのとてつもない困難さという見かけ以上に、それが成功したところでなにがどうなるというんだ?という疑問こそが私を不安にさせる。
しかして「復讐」は成功する。それはこの映画のファーストシーンですでに明らかであったことだ。それでどうなったのか?なにがどうなったのかよくわからないとしかいいようがない。少なくとも言えるのはこれは約束の実現などという程度のものではなかったということ、言葉が行為や心理を代行する可能性に関わるようなことではなかったということだ。感情や動機といった内面をすっかり置き去りにして、ただ運動だけが暴走する。欲望や理解などという内面をすっかり置き去りにして、ただ言葉だけが響き渡る。折れたはずの左手の指をがっちり握りしめて突き上げられるガッツポーズ、歯抜けのマウスピースのせいでフガフガと発話される叫び声の大きさ、血糊とアザと笑顔によって歪みきった宮本の顔。それはもうリアルかどうか、整合性がどうの、なんてこととは関係がない。そう宮本と靖子のセックスシーンですでに明らかだったように、彼らの運動や言葉は彼らの欲望や心理の表象ではない。そんなものはどこかに置き忘れたかのような、徹底した外面の形式化の暴走こそが『宮本から君へ』で行われていることのすべてである。宮本の顔は、勝利や苦痛やその他一切と関係を持たない。ただその歪さこそを見ればいい。彼の言葉は、約束や希望やその他一切と関係を持たない。ただその声の大きさに耳を傾ければいい。それらを目の前にして、笑っていいのか、怒っていいのか泣いていいのか悲しめばいいのか叫べばいいのかまったくよくわからなすぎて、笑った。
以下余談。この映画では「解決」が不可能じゃないかと書いたが、ひとつだけ明快きわまりないかたちで行われる「解決」がある。それは、宮本が裕二に借金を完済することだ。貧困や暴力の構造の中で生まれた問題は、負債を返済すること、家族を再生産することという極めて資本主義的なプロセスでのみ解決される。だからかつて『ディストラクション・ベイビーズ』について書いたことはまったく逆だったな、と思うのだ。泰良は「反暴力」ではなく、暴力の権化だったのだ。同様に宮本や靖子も、暴力や貧困を生み出す構造自体に一撃を加えるのではなく、自らを覆う形式をどこまでも加速させ暴走させることによって、その構造自体に近づくのだ。真利子哲也につねにつきまとうこの暴力というテーマは、どこまでも自己増殖するシステムを(それ自体に近づきながら)描き出すことに関わる。それはひょっとして、かつてクロード・シャブロルが「ブルジョワジーという唯一の階級」を描き続けたことの系譜に連なるなにかなのかもしれない。