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November 12, 2019

東京国際映画祭日記2019
森本光一郎

[ cinema ]

10/29
 この日は午前中に授業があったので午後からの参加。今年初めてプレスパスを申請したため、ビクビクしながら列に並ぶ。企業の名前を首から下げてる方なんかを見ると、映画祭に来たんだと強く意識させられる。そんなこんなで今年の開幕に選んだのはドゥニ・コテ『ゴーストタウン・アンソロジー』。監督の名前は知っているが、他の作品を全然知らない理由に考えを巡らせていたが、この作品がベルリンに来ていたことを思い出す。物語は人口200人程度の村で死者が徐々に見えるようになってくる過程の話で、フィルムの質感と困惑はするが基本的に冷静な住民たちの静かな活動によって表面化してくる生と死の狭間の描写は実に見事だった。天国や地獄は生きている人間が作った概念なので、見えないだけで死者はすぐ側にいるのかもしれない。

 上映はEXシアターで行われ、通常上映と同じ回だったため、プレス用の席が用意されている。しかし、平日の真昼間とあってかプレス席も一般席もガラガラだった。釜山は平日昼の上映を絞っていたが、TIFFはちゃんとやってくれる。これは私のような"暇ではないが時間は作れる"人間にしてみれば嬉しい限りである。

 前の週からの体調不良が微妙に残っていたので、そのまま切り上げて帰宅。

10/30
 この日は朝からラヴ・ディアス・デイ。TIFFはズボラな私が彼の映画を通しで観る唯一の場所となっている。500円の上乗せでちょっとリッチな席に座る。座り心地が良いわけではないが、席幅と足が広くて快適だ。ということで二本目、ラヴ・ディアス『停止』。去年の『悪魔の季節』よりも40分近く長くなった最新作。ディアスのドゥテルテ嫌いは許容範囲を大幅に越えたようで、これまでアレゴリックに留めていた表現を生のまま展開し、"大統領はクソだ!"やら"死ね!"といった罵詈雑言が響き渡り、私有化された軍が民衆を殺しまくって夥しい量の血が流れるのには驚きを隠せなかった。それに加えて、大統領の異常なエピソード、例えば精神安定剤をがぶ飲みしながら幻聴と大喧嘩を繰り返し、気に入らない部下や知識人はさっさと殺し、遂には女装してマザコンアピールまでしてしまう一連のエピソード(どれも長い)を理由付けとして、大統領の異常性を訴えてくるのだ。勿論、精神異常の大統領は問題なんだが、権力の私有化は精神異常じゃなくても起こりうる話だし、実際に起こってるのは後者の方だ。

 彼は2000年代前半から"権力の腐敗"と"負の歴史は繰り返してはいけない"というメッセージを繰り返し展開してきたが、メッセージは全く届いてなかった。この映画はドゥテルテに対する怒りに加えて、届いてなかったことに対する怒りも含まれているだろう。ある種希望的な解決策として提示されるのは、子供たちを正しく教育することで腐敗を生みそれを享受してしまう文化をまるごとひっくり返そうというものだった。我々はラヴ・ディアスと共に怒り、彼と共に世界を変えていく努力をするべきなんだ。

 泣く泣く『停止』のQ&Aセッションを抜け出して三本目、ヨールン・ミクレブスト・シーヴェシェン『ディスコ』。美しい女優を中心に置いたポスター、"ディスコ"というシンプルで魅力的な題名、そして華やかなディスコダンス予告編という三つの要素が新興宗教のリクルート方法そのもので、実際に引っ掛かった人も多くいただろうと思うし、斯くいう私もその一人だ。しかも、私がよく知らない未公開映画を観る選定条件がポスターと題名なので、完全に逆手に取られている。こんなことされて穏やかでいられるはずもない。映画は新興宗教の洗脳説教を少女と共に三種類も体験するので、聖書の拡大解釈すら飛び越えたぶっ飛び理論を延々と語る大人たちをジッと見ることになる。これはこれで面白いのだが、映像的には単調で、主張も相まって飽きてくる。そして、肝心のディスコダンスのシーンも顔ばっかり写しててダイナミックさに欠けている。この作品は前々から"人の死なない『ミッドサマー』"と呼ばれていたので注目していたのだが、蓋を開けてみれば景色や異常性が少し似ているだけだったことはちゃんと言っておきたい。悪い映画ではないのだが、"やーい!引っ掛かった!"という声が聞こえるようで悲しくなってしまった。

 『ディスコ』は一番期待していただけに、残念だった。意気消沈して、残りの映画はキャンセルして帰宅。

11/1
 前日は別件の予定が夜遅くまで入ってたので、眠い目を擦りながらTIFF四本目、レイス・チェリッキ『湖上のリンゴ』。これに関してはノーコメントで。高地にある野原が舞台になっており、今年のワースト候補作『Running to the Sky』(釜山映画祭日記参照)を思い出してしまい、余計に気分が悪くなってしまった。

 続いて五本目コンデート・ジャトゥランラッサミー『私たちの居場所』。これは前日の夜観る予定だったが、事情によって一般のチケットを確保した。"自分の居場所がない"と考える十代の少年少女が、自分にとって素敵な場所を探す映画を今年に入って何本も観ている。特に、旧ユーゴ圏の若手作家たちは戦争によって幼いうちに祖国を離れ、移住先で"自分の居場所がない"という感情を強めており、それを映画にぶつけた作品はどれも彼らの苦悩が彼らの中でも、そして彼らを超えた場所でも展開する重厚さがあった。或いは、ジェントリフィケーションによって祖父の家を追い出された黒人の青年が、帰属意識の喪失によって放浪を続ける『The Last Black Man in San Francisco』という作品もあった。両者に共通しているのは、"どこかへ帰属したい"という意識であり、羨望が彼ら/彼女らを突き動かす。

 この映画はどうだろうか。取り敢えずフィンランドを目指す主人公の少女にはその"憧れ"が欠如している。別に行っても行かなくてもいいが、私の居場所はここではないどこかにあるはず、という他力本願というか投げやりとも言えるアイデンティティの放浪が本作品の肝だったはずだ。しかし、そんなやる気のない態度が散乱したエピソードの中心に座らされている少女の顔に書いてあるのは、理解は出来るが観ていて気持ちのいいものではないし、後半の意味不明なスピリチュアルな展開から物語そのものが発散する方向へ向かっていったのも残念だった。ポスターと題名だけでそれなりの当たりを引いたので、私の『ディスコ』に対する当たりがキツくなってしまった。

 続いて六本目、アリツ・モレノ『列車旅行のすすめ』。『サラゴサの写本』を思い起こさせる多重入れ子構造、『夜行性情欲魔』を思い起こさせる人物の入れ替えを含んだ、『人生スイッチ』を思い起こさせるブラックコメディ映画。文学的な遊びを見事に映像化しており、パタパタと展開する奇天烈な世界観に惚れてしまった。現実と嘘、そして映画と小説をボーダーレスにしようとする試みは評価されるべきだし、一度観ただけでは咀嚼しきれない膨大な情報量があったのは確かだ。

 PI上映ばかりでTOHOの外に出られなかったので、次の映画を代わりに買ってくれた友人と待ち合わせて久しぶりの外の空気を吸う。と思いきや、別の映画を観ていた友人からQ&Aが長引いたので先に行ってくれと連絡があり、一人で夕飯を食べる。時間もないので近場の店に入ったら、金欠の学生にはかなり厳しい料金だった。

 続いて七本目、ヨンファン『チェリー・レイン7番地』。ヴェネツィアを唖然とさせた香港の変態アニメ映画。アニメを見る目に肥えた日本人ならこの映画の目に表情がなく、もっさり動く人物たちには奇妙な違和感を覚えるだろうし、所作や動きの滑らかさというか細かさの差異が激しく、最早静止画という場面すら散見された。しかし、結局はそのもっさりした動きも慣れてくると逆に魅力的に見えてくる。香港の大学で英語を学んでいたことで美人親子と遭遇したイケメン主人公ジーミンが、両方から手を出されるというウハウハ物語が一応の内容だ。夫人との関係は文学や映画と文化的に洗練されているものの些か古臭い趣味という感じも否めず、実際に二人の関係は会話と妄想、そしてナレーション(つまり心の動き)が主である。それに対して、娘メイリンとの関係はモダンなもので、ファッションショーやダンスパーティなど実際に体を動かすことが多い。面白いのはどちらも映画に観に行っているのだが、夫人が映画を"観る"そして"語る"ことが重要であるのに対して、メイリンは映画を観に"行く"ことが重要であるように描かれていることだろうか。夫人と観る映画はほぼ全部シモーヌ・シニョレ作品で、シニョレが若い俳優と叶わぬ恋に落ちる話は、そのまま夫人とジーミンの関係に転写され、シニョレの台詞は全部ナレーションが、つまり二人の心の動きとして捉えられていた。それが、最終的にシニョレが自分で話すことで、二人の関係が新たなステージに移ってしまったことを暗示し、実際に物語はメイリンのものになってしまう。

 監督はメイリンの成長と香港についての短編を書き続けて50篇ほど溜まったらしい。本作品はその中から幾つかの挿話を抜粋したというのだ。来年出版するという原作本も読んでみたいと思いつつ、終電に駆け込んで帰宅。明日も早いのでさっさと就寝。

11/2
 八本目は自分でもドン引きするほど嫌だったので名前は伏せておく。気を取り直して九本目、サイード・ルスタイ『ジャスト6.5』。イラン発の麻薬捜査映画で、王道のパワハラ捜査ものかと思いきや麻薬王が途中で逮捕され、中盤から主人公が徐々に入れ替わり始める。これによって本来"善"であるべき刑事たちの"悪"や単純な"悪"として描かれてきた麻薬王の"善"など人間の二元論で語れない部分を提示する。2時間半の中で一瞬も止まることなく駆け抜ける疾走感と緊張感、刑事もののクリシェを積んでいきながら同時に崩していく姿勢、麻薬王を捕えても次が出てくることを知りながら、それでもイタチを追い続けなければならない無力感などは若手監督の作品とは思えない力強さがある。コンペ選出作品でここまでエンタメに振り切ったのも珍しい気がするが、釜山のコンペ作品に比べても満足度は高いので文句はない。(追記:主演男優賞おめでとうございます。)

 十本目、アレハンドロ・アメナーバル『戦争のさなかで』。フランコ政権誕生前夜のスペインを生きた文豪ウナムーノの晩年を描いた作品だ。彼は明確な支持政党もなく自分が好きなことをやってくれる人を頼るという自分大好きお爺さんとして描かれており、自分自身を老獪で立ち回りの上手い人間と思っているようだ。しかし、彼は上手く機嫌を取られて操られているだけの存在であり、権力を欲する軍人たちのある種隠れ蓑になっていたに過ぎない。映画はひたすらこの頑固な爺さんが自分の主張を頑なに守り続ける様を映し続け、全てが手遅れになってから空を切るような最後の手を打つ。演出も撮影も全てが堅実で、そこは"巨匠"として安定のクオリティを保っているのかもしれないが、正直伝記映画そのものがネタギレしている感じなので、イマイチ突き抜けない題材をイマイチ突き抜けない演出で映画にしたってイマイチ突き抜けないことに変わりないだろう。伝えたいのはこうだ。彼みたいにオイシイとこばっかみてると手遅れになるぞと。ラヴ・ディアスと一緒だ。しかし、堅実さが仇となってお説教にしか聞こえない。2時間も説教を受ける気にはなれない。

 十一本目、ジェームズ・マンゴールド『フォードvsフェラーリ』。ハリウッド作品で主人公たちがフォード側なので"どちらが勝つのか"という次元の物語ではないのは明白。私は『下町ロケット』のようは技術屋とドライバーが協力して車を開発する話だと思っていたら、『ローグ・ワン』以降ブロックバスター映画にちょこちょこ登場する"中間管理職の辛さ"の映画だった。基本的に車いじりのシーンは"速くするように頑張ったら速くなりました"という感じで、残りはベイルとデイモンの友情、そしてデイモンと会社のバトルに割かれている。超速テンポの編集や個々の演技などで魅せる(悪く言えば誤魔化す)力はあるので飽きはしないが、特に何かが残る映画ではない。それでも当たりっぽい当たりが少なかったので私は素直に好きになれた気がする。

 ちなみに、映画ライター"よしひろまさみち"さんとモータージャーナリスト堀江史朗さんが上映前にトークショーをされていたが、私は上映後にも堀江さんにプロとして興奮したシーンなどを訊いてみたかった。

11/3
 この日がとても忙しい。なにせ14時に終わる映画の次に14時から始まる映画のために、EXシアターまで走らねばならない。しかも、偶然三本全部がヴェネツィアのコンペに選出された作品だった。これで帰宅して『ザ・ランドロマット -パナマ文書流出-』でも観れば完璧じゃないか!と一人で妄想していた。

 ということで十二本目、ヴァーツラフ・マルホウル『ペインテッド・バード』。ヴェネツィアの星取では堂々の最低評価を叩き出したわけだが、東欧映画好きとして密かに応援していた作品がTIFFに上陸したのだ。しかも配給まで付いた。本映画祭プログラマーの矢田部吉彦さんは過去にカルロヴィヴァリ映画祭で審査員をしたり、クリスティ・プイウの『シエラネバダ』を上映したり東欧には縁深いのだ。本当にありがとうございます。レビューは別個の記事を参照のこと。実はエンドロール手前の2分くらいは観ずに次の作品に行ってしまったので、ラストはもう一度観て確認しようと思う。

 十三本目、ノア・バームバック『マリッジ・ストーリー』。猛ダッシュの末、結構しっかり間に合ってしまった。結果論だが『ペインテッド・バード』のラストも観られたんじゃないかと少し後悔。冒頭の『フランシス・ハ』のようにテンポの良い人物紹介(編集が同じ人だから)から小気味よく、前半はコミカルなすれ違いやコンテンツ盛りまくりな義母のおかげで実に軽妙で、一瞬二人の夫婦が離婚の縁にあることすら忘れてしまうほどだ。女優と演出家、西海岸と東海岸の対立はこれまで続いてきたが、その双方を平等に描き、どちらを悪者にするでもなく互いに認め合うことである種の解決に導こうとするのは非常に面白い試みだった。

 十四本目、オリヴィエ・アサイヤス『WASPネットワーク』。実在の"WASPネットワーク"について調べていって、面白そうなエピソードを全部突っ込んだら底が抜けたという感じの映画で、物語ることに執着しすぎて折角のアンサンブルが置物になっている。演技というものがどうでもいいかのように答え合わせをナレーションで済ませる割に、長編映画にするためなのか前半のどうでもいいエピソード(結婚式とか)を引っ張りまくるのもどうかと思う。アナ・デ・アルマスで救われたような映画なのに、彼女が一番いらない役をやっているという皮肉は最高に面白いが笑えない。パリの出版界隈を描いた翌年にMiGと戦闘してる監督もそういないと思うのでチャレンジ精神は評価するが、チャレンジして投げっぱなしにするのは良くないので、それなりの体裁くらいは保ってくれるとありがたい。

 猛ダッシュで疲れてしまったので友人たちと飲み会。今年の現状ベストや2010年代ベスト、オススメのドラマやアカデミー賞予想などを語り合って解散。次の映画の予定もキャンセルして帰宅。

11/4
 十五本目、オリヴァー・ラクセ『ファイアー・ウィル・カム』。体調が悪すぎてほとんど憶えてないのが悔しい。ラテンビートでもう一度回収しようと思う。午後の予定もキャンセルして病院に行ったら休日だったので、無念の帰宅。薬を飲んですぐに寝る。

11/5
 早く寝たので早く起きてしまい、しかも体調もかなり回復していた。昨日の不調はなんだったのか。10時開始の上映に間に合うよう病み上がり猛ダッシュを繰り出したところ、10時50分開始だった。これじゃあ午後の授業に間に合わない!

 ということで十六本目、マーティン・スコセッシ『アイリッシュマン』。安定のスコセッシで3時間余すところなくホッファ以前・ホッファ・ホッファ以後のフランク・シーランの生涯を描く。青い目のアイルランド人シーランとイタリア人を"イタ公"と蔑むホッファを、共にイタリア系のロバート・デ・ニーロとアル・パチーノが演じるだけは終始理解に苦しむが、それ以外は良い出来だと思う。人物相関図が発散しがちなマフィア映画において、ここまで既視感のある俳優たちを画面にキッチリ収めることで収束へ向けていくのは素晴らしい。ソレンティーノなんか途中から投げやりになって固有名詞にメンションを飛ばしまくってたからな。全体的に年齢も相まって若くても激しく動けない役者たちと、それがスコセッシに伝染したかのように完全には締まっていない演出や劇伴が、全盛期(の数本しか観てない)からの衰えを感じさせて少し寂しい。一番重要なのは語り部である老人フランクが、その人生の終わりを見据えながら結構な時間を生き延びるラストの30分であり、何かを守ろうとして何も残らなかった男の虚無や悲哀を浴びるように感じてしまった。デ・ニーロにもスコセッシにも、そして直接の関連はないもののパチーノやペシ、カイテルにも通じる"終わり"への感情がなんとも悲しかった。

 猛ダッシュで授業に滑り込む。"前と同じこと言ってるので内職してていいよ"という教授の言葉に甘えてそっとキーパッドを叩いてこの文章を書く。今年のTIFFは釜山と同じく当たりだろうと思っていた『チェリー・レイン7番地』『ペインテッド・バード』『マリッジ・ストーリー』『アイリッシュマン』が順当に面白く、残りの作品はそこまで心惹かれる当たりは引けなかった。その点、予定調和で終わってしまった感じは否めない。あと、毎年ユースは全部観ると誓ってから1年で破ってしまったのも痛かった。全日参加が出来るのは来年が最後なので、来年くらいはコンペ全制覇みたいな超人的活動をしてみたい。

 それともう一つ、各所に置かれた椅子が撤去されており、待機場所がほとんどなかったのは書いておきたい。飲食店が改装中なのは仕方がないにしても、余計に空き時間を潰す場所がないのは困りものだ。特に二階のエレベーター横などは完全なデッドスペースになっていた。結局外の噴水のとこや室内の滝の下などに無秩序に溜まっていたので、急ぐ人間と待つ人間を分ける意味でも待機場所を確保するのは必要なことだと思う。

第32回東京国際映画祭