『楽園』瀬々敬久
三浦翔
[ cinema ]
不条理に満ちた現代に、暴力を描くとはどういうことか。映画が暴力を描くときにしばしば動機を必要とするのは、理由のない無差別な暴力が単なる狂気でしかないからだ。そうやって暴力の理由を探すとき、映画は法廷に似るだろう。たとえば李相日の『悪人』は、出会い系サイトで会った女に裏切られた男がその女を殺す、という事件の犯人もその動機も冒頭から明らかで、彼が逮捕されるまでに生じた心の変化を通して「悪人」への理解を誘うものだった。そして、犯人は誰かと問う視線もまた、映画を法廷に似せるものだろう。同監督の『怒り』では、犯人が誰なのか分からないままその特徴と一致する3人の男たちを別々に描くことで、観客の目を疑いの眼差しへと誘い出していた。
しかし法廷的な映画がいくら犯人への同情や理解を誘うとしても、あるいは『怒り』がそのような視線を疑わせるために観客を罠に掛けたとしても、現代的な不条理を描ききれた訳ではないだろう。そもそも、真実を明らかにして観客を安心させる点で、暴力はどこまでも向こう側のものとして描かれるしかないからだ。それゆえにわたしたちは、瀬々敬久の『楽園』を待たなければならなかった。あらゆる世界と瞬時に繋がり、情報の洪水を生きる現代人にとって何より不条理なことは、全てを説明し切れないことであり、およそ現代的な暴力の根底にはそうした存在への不安が付き纏う。そのとき理性がしばしば陥る罠は、安っぽい物語を語り世界を理解したことにするものだ。先入観、偏見、疑いの眼差しや言い掛かりは、ときに正義の衣さえ着て暴力を遂行してしまう。暴力はこちらの側にも存在するのだ。『楽園』はそうした視線の構造を問いに掛け、わたしたちの病理を映し返す鏡となっている。
おそらく『楽園』の観客は、愛華ちゃん行方不明事件の犯人探しをするだろう。最悪なのは、予告編を見て綾野剛演じる豪士が犯人かもしれないという図式を前もって当てはめてしまうことだ。いずれにせよ、それは人間が意味を求めてしまう存在である限り仕方がないことかもしれない。しかし、映画に誠実な観客にとって重要なことは如何にして語られるかだ。『64』を思い返しても、瀬々のナラティヴは犯人探しに反省的なものを加えている。それは、元刑事課の広報官である三上が記者クラブと県警の板挟みになりながら、性急に真実を求める彼らの危険性に悩み、より多くの物語を救い出そうと奮闘するものだった。『楽園』は、間違いなくその延長線上にある。その群像劇もまた、過去の犯人探しより、以後の物語を救い出そうとするのだから。とはいえ『64』との重要な違いは、まさに事件が解決へと向かわないことで、その中心に空いた穴が決して埋められないことにある。疑われた豪士と事件の関係は最後まで定かではなく、異邦人として村のなかに居場所を見つけられない彼の不安が明らかになるだけだった。むしろ画面を素直に見つめていくならば、彼の不安でしかないものが、村人たちによって犯人の根拠であるかのように解釈されていく供犠を目撃するだろう。そのようにして観客は、自らも同一化していただろう犯人探しの視線から引き剥がされるのだ。
不条理に人は耐えられないのだろうか。わたしたちは「もしあのときこうしていたら」という仕方で不条理な過去と向き合ってしまいがちだ。杉咲花演じる紡は、愛華ちゃんが行方不明になるまで一緒にいた友達だ。愛華の父から「なぜ死んだのがお前ではなくて、愛華だったのか」とも言われてしまうが、それは紡が自分自身に対して「もしあのとき」と問い続ける罪の意識でもあっただろう。そんな紡は、新たな友となりかけた豪士とも、果たせなかった約束を残して別れてしまう。豪士を知る紡にとって「あいつが犯人だったと言ってくれ」という村人たちのドグマは受け入れられないもので、村を離れて東京で暮らすようになった。だからと言って、あのことを忘れた訳ではない。友と別れた三叉路にときおり立つとき、もうひとつの道に消えてしまった友の記憶や「豪士が本当に犯人だったのか」という真実への問いが回帰するのだ。たしかにあのとき豪士と愛華は共にいただろう。しかしその後、何が起きたのか真相は分からなかった。代わりに想起するのは、村に居場所がない豪士の孤独と自分が傷つけた愛華の気持ちでしかない。だからこそ、いつまでも犯人探しを続ける村のドグマが繰り返し誰かを村の外部へ投げ出していることに苛立ち、変わらない故郷の地で「犯人なんて分からなくていい、わたしは全部背負ってやる」と言い切るのだった。そのとき紡は、もはやそれが取り返しのつかない過去であることを受け入れているだろう。
ところで驚いたのは『楽園』という映画に暗さではなく美しさを感じてしまうことだった。それは『楽園』が古く陰湿な村社会の論理を批判することよりも、現在の視線を重ね、どうしようもない不条理を背負って生きる人間の在り方を讃えているからに違いない。