第20回「東京フィルメックス」日記①
三浦翔
[ cinema ]
2019/11/26
今年のフィルメックスは出遅れて3日目からスタート。4日間しか参加出来ないけれど、可能な限り見ていきたい。
今年20周年を迎えるフィルメックスでは歴代受賞作人気投票が行われて、そのうち3本が上映される。上位5本のうち2本は「権利元や素材の確認が出来ず」とのこと。映画祭で観たきりになってしまう作品はたしかに多いが、そもそも上映したくても上映できない自体は悲しい。そういうことはますます増えていくのだろうか。大きな商業映画枠でない映画が、どうやったら長く見られていくことが出来るのかは他人事の話ではなくて、もう少しするともっと大きな問題になってくる気がするし、なんとかならないものだろうかと思う。
今日見たロウ・イエの『ふたりの人魚』(2000)は第1回東京フィルメックス最優秀作品賞を受賞している。ハッと思って制作年を見ると2000年になっていた。ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』(2000)、ジャ・ジャンクー『プラットホーム』(2000)と同じ年の作品で、NOBODYの47号を作るときに結城さんが語ってくれた、デジタル黎明期にすごく新しい映画の在り方を感じていたという話が脳を過ぎる。なによりも『ふたりの人魚』が良かったのは、そうした時代の感覚を感じれることで、とりわけそのオープニングはカメラを持つ喜びに溢れている。船から川岸の都市を撮影していくドキュメンテーションが、そのままフィクションの語りへと通じていくあたりがもの凄く軽やかで、上海の神話的な空気を映しだしていた。今でこそ撮影者を語り手として感じさせる撮影に主観的な語りを加えていくスタイルはよく見かけるけれど、それはそれでコンセプチュアルなものとして終わっているに過ぎない。しかし『ふたりの人魚』のそれは違う。記録することが既に何かを語ることであり、同時にあらゆる語りは何かの記録である、という映画的な二重の欲望に貫かれていることで、ドキュメンタリーかフィクションかという区分けを軽々と飛び越えているのだ。
次に見たのはコンペティションの『評決』(2019)で、夫にDVを受けた妻の視点から、彼が裁判に掛けられる過程が描かれる。『評決』はレイムンド・リバイ・グティエレスの初監督作である。監督はプロデューサーのブリランテ・メンドゥーサに相談したところ、このテーマは在り来たりのものだけれど、その覚悟はあるのかと問われたと語っていたが、いままで見たどの映画にも似ていない力作となっている。裁判中の原告と被告が法廷の外でこんなに直接やり取りをするのかと驚くし、自分があまり詳しくないフィリピンの警察と司法制度の杜撰さを知れるというか、しっかりと証拠を調べ上げないままかたちだけの裁判が行われて、結果的に金のある弁護士が勝つパワーゲームになっていることなど、現状を明かす演出が細かな点に行き渡っていて冴えている。この映画のそうした側面は、今日の日本の課題にも通じていることは明白だ。
他方でこの作品を普遍的にしているのは、子供が証人として裁判に立つシーンだろう。父親と母親の前で「お父さんが捕まってしまって良い?お父さんと離ればなれになっても良い?」と質問をする弁護士はなんと汚いやつか。監督曰く、フィリピンでは司法の場ではなく、家族の間で解決されることが望まれるというが、子供の気持ちというもので問題を誤魔化して公正な判断が揺らいでしまうことがあってはならない。にもかかわらず、ここに生まれたドラマは確かにわれわれが正義の力で解決し切れない多くの試練があることを明かしているだろう。監督の選んだ結末は、司法が下す判断と食い違うものだったが、それを司法が下せない正義の裁きが与えられたと考えるのは貧しい解釈だろう。結果にだけ目を向け平均的な公正さを目指す視線と、映画が描くものは対立せざるを得ないはずなのだ。
2019/11/27
今年のフィルメックスは自然とフェミニズムの観点から語りたくなる作品が多い。あるいはそれが世界的な最前線なのか。2日目にしてはっきりと感じる。そんなことだから、個々の作品の良し悪しよりも、全体としてテーマがどのように拡がっていくのかということに僕は関心が向かってしまう。それも映画祭のプログラムを楽しむやり方のひとつだろう。
ミディー・ジーの『ニーナ・ウー』(2019)は、それに映画界の#Metoo問題に正面から挑んだ力作と聞いていた。ただし、この監督の『マンダレーへの道』(2016)にも思ったことだが、結末をショッキングに描き放り投げてしまうというか、アクチュアルなテーマを描きつつも最後まで描き切る力がないのではという疑念が残る。もし女優が受けた性被害の本質が薬を飲まされてレイプされたことだけでしかないのならば、それは犯罪の問題だろう。もちろんそれも大事な問題だが、#Metooとは告発を許さなかった社会の抑圧に連帯して挑む運動だったはずだ。とりわけ何故それが映画界という場所で問題になったのか。そのことに迫れているのは恐らく前半の方で、なぜリアリズムなのかが問われなければいけない。アラーキー然り、カメラが求める真実の視線が、俳優を特権的な快楽の場に誘い、そして同時に抑圧の構造を作り出していく逆説。そのことと#Metooの問題は無関係でないはずで、リアルを求める演出が俳優にポルノグラフィックな他者からの視線を内面化させてしまい、同時に自分自身を隠さなければいけない、といったことが問題の根底にあるはずだ。『ニーナ・ウー』が良かった点は、そうしたことを自覚しながら俳優の置かれた不可思議な状況を描いていることだっただろう。
チベットの山奥の暮らしを描くペマ・ツェテンの『気球』(2019)も一人っ子政策の陰にある物語を描く点でフェミニズム的な関心から見られて良い作品でもある。紹介で使われている写真の細長い風船は、子供が親のコンドームを盗み遊びで作ったもので、山羊の生を管理する者たちの生活や特有の葬儀の在り方など、あからさまな生/性を描く作品だと言えよう。しかし、そのようなチベットの民間信仰は生まれ変わりを信じており、近代的な人口管理である一人っ子政策と折り合いが悪い。そこに悲劇が起きる。身籠った子供が死んだ夫側の父親が生まれ変わったものだと考えるならば産まないわけにはいかないが、一人っ子政策のために子供を産めば罰金を払わねばならずに生活が困窮して苦しむことになるという二者択一の間で揺れるのだ。かつて女は産むことが仕事だったが、今は違う価値を見出せる時代だと医師が語っていた。しかし、そこまで思うことの出来なかった母親は、罪の意識が抜けずに僧の山へ向かう。結果的に出家するかどうか分からないが、そもそも信仰を捨てることなど簡単に出来ないことは明らかだ。
家出ものというジャンルがあるかと言って良いかまでは分からないが、パク・ジョンボムの『波高』(2019)はひとつの島が舞台で、売春の事実を隠すために村から邪魔者扱いされる若い女性のイェウンと離婚する母親に疑念を抱く幼い娘がふたりで逃げ回る映画だ。ただし、少しずつ明らかになる売春の実体は強いテーマ性を抱えるものだったとしても、それを見つめる映画の視線にはどこか月並みなものを感じてしまう。限られた空間の中で行われる捜索という構造は、ナラティブを円滑的に進めることに貢献しているが、それだと告発するか隠蔽されるかという二分法に収まり続けるように思えるからだ。むしろ、この映画の重要な点は父親と母親を失くした海へのトラウマを抱えるイェウンが、船に乗れない自分を克服しようと海に入って行くシーンにあっただろう。少女たちは、そうすることによって、島の外に隠れさせて売春の事実を隠蔽したい村人たちの要求を飲むことを可能にし、ゴタゴタを納めてしまう。仮に告発してしまえば更生施設に送られる彼女にとっても、告発されればほとんどの人が刑務所に行ってしまう村人たちにとっても、この場はそのようにして切り抜けるしか無かったのか。しかしながら、少女にとって自分のトラウマと向き合う行為が、それだけの意味に終わるはずもなかっただろう。
フェミニズムの問題に限らず、今日、映画が政治的なテーマを描くときにはそのまま正義の視線を当て嵌める訳にはいかない。少なくとも、現在の社会には公的な正義によって平準化仕切れない余剰が存在するからだ。国家による公的な法だけではなく、私たちの生きる社会には慣習法の感覚も必要ではないだろうか。特に、接続過剰な社会の正義は再帰や赦しの余地すら残さない潔癖症を生んでしまうのが苦しい。そんな問いについて最近は考えているが、今日出会った映画たちもまた現在進行形の矛盾たちを明かしてくれた気がする。映画の"働き方改革"「インディペンデント映画のサステナブルな制作環境とは」というシンポジウムも楽しみになってきた。