『HHH:侯孝賢』オリヴィエ・アサイヤス
結城秀勇
[ cinema ]
子供の頃よくたむろって遊んだという死者を祀る廟の前で、久しぶりに会った年長の知り合いに挨拶をしたら向こうは気づかず、「アハだよ」と言ったら向こうが「あー!!」ってなって肩をバシバシ叩いてくるときのあのホウ・シャオシェンの笑顔は、3、40年前のわんぱく小僧だったときも彼はこんな風に笑っていたのだなと思わせるなにかがあって、それだけで泣けてくる。
その直前のシーンで、彼は小さい頃によくマンゴーを盗んだ庭の話をしていて、そのとき覚えた感覚は映画の撮影で感じる感覚と近いという話をしていた。盗んだらさっさと逃げればいいのに、木の上によじ登ったままマンゴーをかじり、そして食べ終わったらもうひとつ盗んで逃げる、その間に感じる孤独のような感覚。それは絶え間ない流れの中で立ち止まり、自分が来た時間と空間のことを考える映画製作と似ていたのだと。
上映後のQ&Aで、オリヴィエ・アサイヤスが「自分がこれを撮るまでの「我らの時代の映画」シリーズには、"時間"の感覚が欠けていたと思う」と語ったとおり、この映画は時間の感覚に溢れている。まずこの時代。台湾ニューウェーブの監督たちの存在が世界に知られ、アサイヤスを通じてヴィルジニー・ルドワイヤンがエドワード・ヤンの『カップルズ』に出演することになる。この作品の撮影をエリック・ゴーティエが、音響をドゥ・ドゥージが担当する。ホウ・シャオシェンがこれからつくることになる映画館の夢を語る。そうした時代でなければ撮られなかっただろうなにかがこの作品には満ちている。
正直言って、個人的にこの時代に対するあこがれや懐古が強すぎるのだという気もする。でもその一方で、それですらもこの作品にあるもうひとつの時間、ただの時間と呼ぶしかないようなものには、結局かなわないのだ。散歩しながら語り、お茶を飲み語り、また散歩して、またお茶を飲み、また散歩して、酒を飲み、カラオケをする時間。あるいは、お茶を飲むと一言で言うときの、何度も何度も茶器にお茶を回しかけるあの時間。それは決してノスタルジーでは片付けることのできない、観客ひとりひとりが立ち止まり、自らの来し方を振り返る時間なのだ。