『マリッジ・ストーリー』ノア・バームバック
結城秀勇
[ cinema ]
しばしば気づいているはずなのに、いつもいつも忘れてしまうこと。スカーレット・ヨハンソンはけっこう背が低い。あのはち切れんばかりに膨らんだ胸とお尻のイメージで見積もるよりかなり小さい。しかもアダム・ドライバーと並ぶんだからだいぶ小さい。そして、知ってはいるけれど、アダム・ドライバーはいつもいつも思ってるよりでかい。ギュッと縦に押しつぶしたようなヨハンソンの身体と、びよーんと縦に引き伸ばしたようなドライバーの身体のふたつがある画面が心地いい。狭い浴室で息子の髪を切るニコール(ヨハンソン)と、その隣で窮屈そうに身をかがめて毛をデッキブラシで集めるチャーリー(ドライバー)の画面を見ただけで、広角のレンズで歪んだような縮尺が、かえって彼らの姿に調和のようなものを与える。
だがそれは離婚調停を穏便に進めるために取り出された、彼らの結婚生活のとりわけ「いい部分」だったにすぎない。彼らは別々のフレームに、あるいは部屋の端と端にいて、そのことは彼らの身長差をあまり気にさせないように機能する。でもなぜか、その通常の意味では均衡のとれたはずの画面には、欠落感が漂う。ニコールのチャーリーの劇団での最後の公演が終わり、これまでは恒例であったはずの妻である主演女優へのダメ出しを、夫は口に出さずにいる。「でもそれじゃあなたが眠れなくなるでしょ」とニコールがうながすと、チャーリーは「ラストの場面の君の感情は嘘くさかった」と言う。「私は嘘泣きなんてできないから、あのときは感情がのらなかったのよ」と告げて、チャーリーを置いてひとり寝室へ向かうニコールの頬を、ランディ・ニューマンの音楽が流れ始めると同時につたう涙のあまりの美しさを、チャーリーは目にすることがない。
そして彼らはNYとLAに別れて暮らす。でもだからといって彼らのアンバランスな身体がひとつの画面に同居することがないわけではない。息子を寝かしつけて階段を降りようとしたときにニコールは足を踏み外し、チャーリーは彼女の身体を支える。レンタカーにチャイルドシートが固定されていないので(法律で決まっているというよくわからない理由)、ひとつのドアからふたりは身体をぎゅうぎゅうに押し込んで、座席に固定しようと四苦八苦する。やはりその場面でも、崩れた画面の中に、調和が束の間生まれる。
しかし、訴訟というゲームが始まってしまうと、それらの出来事はまったく違ったかたちで描写されることになる。ニコールは階段をちゃんと降りれなくなるほど酒を飲んでしまう母親である。チャーリーはきちんと固定されていないチャイルドシートに子供を乗せようとするような父親である。もちろんそれがただのゲームにすぎないことを彼らは知っているはずなのだ。本当に起きたのはそんなことではないと。けれど、いま語られていることが間違いだと気づいているはずなのに、じゃあ本当はなにが起こったかをきちんと覚えているかと言えばたぶんそうでもないのだ。いつもいつも、ヨハンソンの身長が思ったよりも小さく、ドライバーの身長が思ったよりも大きいみたいに。
だからこの映画の2時間16分を通じて、ニコールとチャーリーの関係が法的にどう変化するかなんてほとんどどうでもいいことだ。ラストのシーンに至るまで、ニコールはどうしようもないほどにニコールであり続け、チャーリーもまたそうなのだ。弁護士からの離婚訴訟の通知(?なんと呼ぶのかわからないが)を渡されたチャーリーは、動揺のあまりニコールと次のような会話を交わすのだった。
ーーなんで君のお姉さんはパイを持ってたんだ?パイの話をしたあたりから話が悪い方向にいったんだ。
ーーなんの意味もないわよ。パイはただのパイよ。
パイはただのパイであり、ニコールはどこまでもニコールであり、チャーリーも嫌になるほどチャーリーである。わかりきっているはずの事実の、その大きさと小ささとをきちんと確かめるために、この作品の上映時間はある。そして誰もが思うことだろうが、この映画のタイトルは「ディヴォース・ストーリー」ではなくて、あくまで「マリッジ・ストーリー」なのだ。そんなわかりきったはずのことに、この映画を見終わった後で気づく。