『フォードvsフェラーリ』ジェームズ・マンゴールド
千浦僚
[ cinema ]
これもまた、挫折と表裏一体のヒロイズムを謳ってきた監督ジェームズ・マンゴールドらしい映画だ。マンゴールドは自身のフィルモグラフィーのノンジャンルさ多彩さを誇るかもしれず、それはそのとおりだが、評するうえでの怠慢や単純化ではなくやはりそこには作り手としての一貫したもの、翳りがある、反転を重ねた現代的な英雄像を描く意志を感じる。
明らかに各出演作ごとの変身を楽しんでいるクリスチャン・ベイルは本作では頑固一徹若干変人、天才肌のカーレーサー、ケン・マイルズを演じる。ほあ?みたいな口を半開きにして見上げる表情の決まり方といったらない。
完全なダブル主演、主演俳優ふたり体制の映画ながら渋いほう、行動量の少ないほう、体にガタが来て引退したレーサー、チーム監督としてレースに臨む男キャロル・シェルビー役を受けたマット・デイモンも良い。ベイルとデイモンはベン・アフレックが嫉妬で発狂しそうなほどの(などというのはもう古いのか)芝居のシンクロ、ケミストリーを見せる。つい最近も60年代の時代風俗のなか男同士が極めて親密に過ごしているさまを見せた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』があったが、この映画もすごくあんなふうアゲイン。
フォードがフェラーリに挑んだ1966年のル・マン24時間耐久レースをクライマックスに持ってくる流れで、前半なんかはちょっと城山三郎の企業小説経済小説かい!みたいな感じがあり(ヘンリー・フォード二世とかリー・アイアコッカとかが出てくる)、そのリアルっぽさや情報量はああアメリカ映画のスタンダードな語り口、と思うが、おおっ、とアガったのはフェラーリの描写。企業というか自動車工房としてのフェラーリがすごく魅力的で。一瞬出てくるだけですけど。アイアコッカがフェラーリを買収しにイタリアに行く。そしたら納屋みたいなところで、反=流れ作業で職人がかかりきりでひとり一台のエンジンをつくってる。フェラーリの年間製造台数はフォードの一日の製造台数にも及ばない。でもフォードはフェラーリにレースで勝てない。買収しに行ってレースに関するイニシアチブをめぐって決裂。エンツォ・フェラーリがアイアコッカ(とフォード)を面罵する。"お前らはミシガン州で醜くて遅い車をつくっとけや!"。これ、相当脚色してると思いますけど、よかった...... 『ゴッドファーザー』をはじめ、アメリカ映画が(憧れの?)異郷として描くイタリアは大抵良い。
で、そこからの絶対的な侮蔑を受けて挑戦者としてのフォード(この、怒ったからやる気を出す、というのも面白い)がテコ入れしたレースチームをやっていくのがキャロル・シェルビーとケン・マイルズというふたりの主人公なのね。
ただ、このふたりが企業フォードのマインドよりも、職人的現場的フェラーリ的マインドの持ち主であることがひねってあるところ、映画の面白いところ。まあそういうマインドでなければ戦えない、勝てないのだけども。基盤であり後ろ盾であるはずのフォード社がその効率優先確率優先、コントロールフリークぶりから彼らを邪魔してくる(マンゴールド過去作の題を引くなら interrupted )、このへんは実に現代的な、単純ではないお話。フォード対フェラーリという題名で、史実、レース結果としてフォード勝利がありながら、お話、映画としてはフォード社のあるメンツが敵だったり、勝利もわかる者にしかわからないかたちだったりする。クライマックスの後、ベイル演じるケン・マイルズの偉業が思いがけず傷つけられたときのエンツォ・フェラーリの一瞥と挨拶。前半このオヤジが威厳ある姿で出ていたことが効いてくる。
ある時間内での最長走破距離を競う耐久レースは、限定された距離の最速を争うレースとは違う。速く走ることと燃え尽きないことを天秤にかけながらゆく、すると走破距離は外的な条件ではなくレーサーの内側に存するものとなる。その感じをこの映画は出せていた。主人公ふたりが相互に直接ではなく、そのゾーンにそれぞれ達することで通じ合っていたというところも良い。脚本ジェズ・バターワース、ジョン=ヘンリー・バターワース、ジェイソン・ケラー。
『フォードvsフェラーリ』、終幕に悲劇もある。しかしレース場面の躍動感と登場人物の熱によって、挑戦と冒険があった、それを生きた、駆け抜けたという清清しさが観終えたときの印象だった。