『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ
結城秀勇
[ cinema ]
先行上映を見に行ったら、上映前に監督からもキャスト一同からもビデオメッセージで「ネタバレしないで」と言われ、はたしてなにを書いたものかと。しかもこれ、なにか一個言っちゃいけないことがあるというより、中盤以降ほとんど全部そうじゃねーか。書きようがない。ということで、未見の方は読まないでください。
映画が始まってすぐに『ヘレディタリー/継承』を思い浮かべてしまったのは、冒頭の地面すれすれにある窓への寄りから半地下の室内の描写へ移るカメラワークのせいだけではないだろう。自前のwifiもなく他人ん家のを勝手にpw破って使う無職一家の、湿気のこもったような薄暗い室内や、便所の片隅でだけ捕まえられる電波(この浴室兼便所の設計がすごい)といった描写が、後に丘の上の金持ちの邸宅と比較されることで、垂直構造と物語の関係が明確にされるせいもある。しかし『ヘレディタリー』を思い浮かべる理由はやはりそれだけとも言えなくて、あらすじには回収されることのない細部の謎のテンションが『ヘレディタリー』、というかむしろA24がらみの諸作品を思い出させるのだ。YouTubeを見て学ぶピザの箱早組み立て(しかもうまくない)とか、大学入試に4回落ちたさえないキャラの長男ギウ(チェ・ウシク)が家庭教師を始めていきなり言う「試験は知識を競うんじゃない、気勢だ!」という謎の断言、中盤に突然現れる北朝鮮のニュース番組を真似した「親北ギャグ」......。おもしろいけどいったいなにを見せられてんのこれ、と。
しかし『ヘレディタリー』との比較を考えていたのはその辺りまでで、『パラサイト』にはここに書いたような異次元の垂直構造は存在せず、むしろ監督本人が濱口竜介との対談で『天国と地獄』の名を挙げているように、極めてクラシックな垂直構造=階級関係を最後まで維持する。下にあるはずのものが上にあったり、横にあると思っていたものが実は上、なんてことはなく、上は上、下は下、どんなに両者の距離が近づいたように見えても、位置関係は逆転しない。そしてそのことはこの作品の保守性を示すというよりも、このかたくななまでの構造の揺るぎのなさこそが、むしろ本作に現代性を与えているのだとすら言える。丘の上の富裕層と坂の下の貧困層という対立の中で、「寄生」という方法によって階級差を埋めようとする試みがどんなにうまくいったように見えても、きれいに取り繕われた表面の一枚下をめくればなにひとつ根本的な変化など起きていないことを示すのが、街中に降り注ぎ、すべてを水浸しにし、高いところから低いところへ絶え間なく流れ注ぐ大雨だろう(たぶんこういうところを言っちゃいけないんでしょうね)。
だが、下にいる者が上に這い上がることはできない、というテーゼ以上に現代的なのが、這い上がることなど望みもしないさらに低いところにいる者たちがいるということだ(この辺から完全にアウトか)。視覚的に垂直構造を認識できる主人公一家が、上へと成り上がるために立てる「計画」は、経歴詐称等を除けば特に倫理的に問題があるようには思えず、一般的な観客は高みに住む金持ちよりは彼らの方にこそ共感して映画を見るだろう。しかし、彼らよりもさらに低く暗いところに住む者たちは、高みにいる者たちを"見る"ことさえ叶わず、嫉妬や取って代わろうとする野望すらなく、ただ「リスペクト!」して自らの境遇に甘んじる。実際作品内でほとんど怪物のように描かれる彼ら一層低い者たちは観客の安易な共感の対象たりえはしないが、しかし彼らの姿こそがこの高度資本主義社会を、新自由主義経済に裏打ちされた政治システムを盲目的に下支えする我々自身の姿により近いのではないか......?
天から降り注ぐ災害ですら、すべての者に平等に被害を与えるわけではない。より大きな被害を被る者と、さしたる被害を受けずにすむ者との間には、明確な「一線」が存在する。その越えられない「一線」を前に、下にいる者たちは上にいる者たちにぶら下がり寄生して生きる他ないのか。......しかし待てよ、寄生しているのは下にいる者たちなのか?上にいる者たちは本当に自立して存在しているのか?高名な建築家が自邸として建てた家は、建築家の死後に若く裕福な家族のものとなるが、惨劇の後に彼らは去る。外国から来たなにも知らない家族がその後を引き継ぐが、やがて彼らもまた去っていくだろう。そしてこの家とそれを支える構造だけが残る。
『パラサイト』という映画の中でどれだけのことが起きようが、この構造はゆるがない。そしてそれを転覆させることではなく、見せることだけにすべてを注ぎこんだのがこの作品だ。変えがたい現実を眼前に押しつけられるのは、ただげんなりする体験のようにも思えるが、それでもこの作品が世界の各所で大きな賞賛を得ているのは、見ることこそが「計画」の始まりだからだろう。目に見えず声も聞こえないはずの者からの「タ・ス・ケ・テ」というメッセージを、少年はたしかに読み解いたように、見ることから次の「計画」は始まる。