アルノー・デプレシャンによるジャン・ドゥーシェ追悼
[ cinema ]
2019年11月22日、アルノーよりメールが届く「ジャンが今晩、亡くなった。彼は最後の瞬間まで、素晴らしく、快活で、輝いていたよ。ジャンはエピキュリアンなローマの王子様のようだった。彼は人生と映画を結びつけた。そして日本を、日本映画をとても愛していた。彼は僕の師匠だった......。僕は彼の生徒であったこと、彼の友人であったことをこの上なく誇りに持っている」。そしてそれから数日後、雨が降りしきる中、パリのシネマテーク・フランセーズでジャン・ドゥーシェの追悼会が開かれる。デプレシャンはその日に読んだ追悼文を送ってくれ、満席で行われたその追悼会の様子をつぶさに報告してくれた。日本を、日本映画を愛したドゥーシェの最期、彼の「スキャンダラスなほどの素晴らしさ」、「避けることができない彼の思考」を日本のシネフィルたちと共有したいというデプレシャンの思いを受け、ここにその文を訳出させていただく。尚、ドキュメンタリー『ジャン・ドゥーシェ、ある映画批評家の肖像』は3月に開催する「映画批評月間2020」で再映する。(坂本安美)
ジャン・ドゥーシェの次の素晴らしい言葉はよく知られています。「愛する人とのランデブーに行くよりも、溝口の映画を観に行くことを好む者は、愛についても溝口についても何も分かっていない」。
ジャンとは18歳の時に出会いました。僕はイデック(フランス国立映画学院、現フェミス)の友人たちと編集台を囲んでいて、ジャンは僕たちの前で『赤線地帯』を分析してくれました。僕は、ジャンの生徒であるという幸運に恵まれ、その幸運はここにいる多くの方々と分かち合っていると思います。それは僕の誇りであり、謙虚さにも繋がっています。僕は彼の生徒であり、友人でした。僕らそれぞれに、ジャンがなによりも教えたいと願っていたのは......、自由、自由への欲求でした。そして彼がそう命じてくれたように、僕は愛する人との約束へできる限り出かけていくことを欲してきました。
今晩、あなた方の前でジャンの教えのひとつを一緒に思い起こさせてください。それはしばらく前から僕の心をとらえ、今日この日もそのことに思いを巡らせている教えであります。その教えとは、自分のセクシュアリティーから倫理を教えたいとジャンが望んだその方法にあります。
ジャンは人生を愛していた。そのことは言われ過ぎるほど言われてきました。ジャンは同じ力、むさぼるような欲求で芸術を愛していたからです。ジャンは人生と芸術が神秘的な契約を結んでいて、私たちの中でそのふたつは絶えず結びついているのだと教えてくれました。ジャンにとって、芸術と人生は同じひとつの生の息吹だったのです。
ジャンによる映画紹介はソクラテスの問答法のようだとよく言われました。ジャンにかかると観客一人ひとりがいつのまにか映画について豊かな見識を身に付けてしまうからです。ジャンはギリシャ人になることを夢見ていたのでしょうか?ジャンはエピキュリアン(快楽主義者、美食家)だと自分自身を定義していました。(まさにエピクロスの教えにあるように)「自然で必要な」唯一の快楽を満足させることによって幸福を探求すること。ジャンは「自然で必要な」彼の快楽を探求することを絶対に必要な倫理と定めていました。それはスキャンダラスであり、そしてとてつもなく素晴らしいことでした。自由についてのこの絶対命令こそ僕が語ろうとしていることです。人生を抱きしめながら、それを教えてくれたジャンは私たちに決断するように強く呼びかけてきました。自分の欲望について決して譲歩してはならないと。
ジャンは同性愛者でした、そのことは重要です。ジャンは若い男性たちを愛していた、若さを愛していました。そうした欲望、嗜好、好みは、彼が若い人たちに熱心に耳を傾けるよう導いたのです。映画、あまりにも若い芸術である映画を愛するように、ジャンは若い人たちに夢中であり、彼らの発するその新しい声に耳を傾け続けました。
彼のエロチシズム、官能的な欲望が彼の倫理そのものでもあったのです。
ガス・ヴァン・サントをニューヨークのバーで見かけたことを思い出します。彼は若い、美しい人たちに囲まれて、僕にはできないであろう注意力で彼らの話を聞いていました。ジャンにとっては、倫理とエロチシズムは結びついていて、若者たちに耳を傾けることになんの困難も必要なかったのです。彼自身が教えるのと同じだけ、彼も若者たちの教えに身をゆだねていました。だからこそジャンは比類なき教師だったのです。
この話をよくしてきましたが、ジャンは僕たちにデ・パルマの諸作を教えるにあたって、むしろ僕たちが彼に作品を紹介するように望みました。先生と生徒との間のこうした素晴らしき可逆性こそ、僕がまさに学びたいと思っている人生や芸術についてのレッスンなのてす。
神話からは遠くなるかもしれませんが、そうした可逆性を別の次元に、たとえば映画の撮影に置き換えてみます。そこではディレクション、監督しているのは誰なのか、俳優?それとも演出家?そこに創造行為、芸術が生まれるのであれば、そうした問いはどうでもいいことでしょう。それでは、誰が教えているのか?誰が指導しているのか?そうした問いはさして重要ではないのです。
ジャンの批評集『愛する技法(l'art d'aimer)』の刊行時に「カイエ・デュ・シネマ」で(セルジュ・)ダネーと(ジャン・)ナルボニによって行われたジャンへのインタビューを思い出したいと思います。ジャンはヌーヴェルヴァーグという戦闘的な集団の中で同性愛者として輝かしく存在していました。ジャンはまさしく燦然と輝いていて、後輩たちは驚きと共に彼の話を聞いていました。
ジャンの批評の方法論をここで細かく述べるつもりはありません、それは他の人々の方がよっぽどきちんと行ってくれるでしょうから。それよりもジャンが書いた以下のことを皆さんに思い出していただきたい。「もし仲介者によってふたつの感性、つまり作品を創り出したアーティストとそれを受け止める愛好家たちが結びつかなければ、芸術作品は絶えてしまうだろう」。映画は、フィルムに焼き付けられ、永遠の生を得ているように思えます。しかし映画ほどはかないものはないでしょう。リュミエール兄弟のふたつのショット、それらは蝶々のようにまたたき、きらきらと輝いています。それでは蝶を押しピンで板に留めればいいのでしょうか?そうではありません。映画は誕生してすぐに、教養のある愛好家たちの目によって作品が見られ、私たちは知りました、「新たな方法で美が我々のもとに到来し、新たな方法で芸術が創り出された」ということを。映画について述べる言葉、コメントの中に映画作品を閉じ込めることが重要なのではありません。ジャンは映画について多く語ってきましたが、それに比べて文章はそれほど書くことはありませんでした。ジャンは映画作品に隠された真実を探求しようとしたのではなく、それを生み出そう、開花させようとしたのです。ラカンが述べたように、「意味の中に突っ込んでいく」のではなく「はりつくことなく、できるだけ近くで意味をかすめる」ことが彼には重要でした。残酷なる狩人が鳥を捕まえようとするように、映画作品をとらえようとすることなどジャンは一度もせず、彼はつねにその作品を広げて見せようとしていました。
バザン、トリュフォー、ドゥーシェ、ダネー、その他多く人々の亡き後、映画は今日、どうなってしまうのでしょうか?ジャンが『La Septième Obsession(第七オブセッション)』(注)という映画雑誌の立ち上げを支持していた理由はまさにそうした配慮からでしょう。美への思い、配慮する気持ちがジャンをここシネマテークや、他の多くの映画館へと足を運ばせたのです。絵画や書物は生き残っていくでしょう。しかし映画の将来は「渡し守 passeurs」に密接に結びついている。渡し守がいなければ、映画作品(フィルム)は誰もそこから美を開かせ、引き出すことがないまま、むなしい、役立たずな蝶に留まるしかありません。ジャンは私たちそれぞれにおける芸術や映画作品が役に立つものであることをはっきりと示してくれました。彼はその不明瞭で、神秘的なるものを「演出 mise en scène」と名付けました。そして私たちがそれを糧に育っていくように、映画に対する野心を高く掲げたのです。その野心はある欲望、あるエロチシズムから生まれたのだと僕は述べたいと思います。ジャンのエロチシズムは、今日、僕にとってひとつの教訓となっています。ジャンの思想はひとつの身体、そう、ジャンの身体を通して伝わってきます。ジャンの身体は大きく、獅子のようであり、太陽のように輝いていました。彼の思想はその身体を通して伝わるものであり、そのことによって彼の思想は避けることなどない強固なものとなっていたのです。
日曜日、病院でジャンに会いました。サイード・ベン・サイード(プロデューサー)やトマ・ロッソ(ワイノット・プロダクション)も一緒に行きました。前日、彼の病状は悪化したのですが、その日は少し回復し、幸せそうで、僕たちを笑わせ、生き生きとしていて、どんなことにも通じていました。彼の話は軽快かつ深淵でした。不満を言うことなどまったくなく、僕たちをまるで高貴な客人を迎えるかのようにもてなしてくれました。恐れはなく、喜びだけを分かち合いました。ジャンは、最後の方は視力をほとんど失っていて、私たちを眺める視線も以前とは異なっていました。しかしながらそうした高齢者の気がかりさえ、微笑みと揺るぎなさをもって受け止めていました。目があまり見えなくなっても、ジャンは映画館パンテオンでの恒例シネクラブを続けることを選択しました。今年の特集は彼にとって大切な映画監督であるミロス・フォアマンでした......。
その日曜日、病院で、ジャンは白くなった長髪に包まれ、ベッドに横たわっていて、とても美しかった。
僕たちはドライヤーについて、『怒りの日』について語り合いました。それからジャンは僕の息子、ナタンの近況を尋ねてくれた......。
翌日、足の治療のため手術室に入る10分前、ジャンはトマに絵画の話をしたそうです。おそらくティツィアーノの絵についてだったのは?トマに聞いてみましょう。
それからの二日間、ジャンはたくさん眠っていました。その二日間も、ジャンは多くの若いシネフィルたちに囲まれて過ごしました。彼らはジャンを心から慕っていました。より年上のジャンの友人たちもつねに集まっていて、ジャンがどんなに愛されていたか、あらためて感じられました。
三日目、呼吸が困難になりました。しかしジャンは人工呼吸のための挿菅を拒みました。僕はその決断に感嘆しました。エピキュリアンであるジャンは残酷な、あるいはぶざまなものは拒んだのです。そしてまたストイックでもあったジャンは死と向かい合うことを選んだのです。ジャンはその晩、一生懸命呼吸を続けていました。その脇にはつねにトマやノエミ・ルヴォウスキー(映画監督)、フレデリック・ボノー(シネマテーク・フランセーズディレクター)が付いていました。
ジャンを看病し続け、疲弊した友人たちは夜中一時に、外気を吸いに病室を出ました。そして戻ってきた時、ジャンは息を引き取っていました。『コンドル』(ハワード・ホークス)で描かれているように、男にはたったひとりでなすべき幾つかのことがあるのです......。
ジャンは自分の死後、いかなるセレモニーも行わないでほしいとはっきりと述べていました。禁欲的かつエピキュリアンであるジャン!でも今晩、幸いにも、私たちは彼の意思に反しました、ジャンはそのことをきっと喜んでいることでしょう。映画を愛する私たち、あまりにももろい存在で、はかなく、繊細な影のような映画を愛することを規範とし、砂の上に映画について書き続ける私たちと共に。「宇宙は運動である」とジャンは述べていました。ジャンは海の運動、芸術の運動と共に生きたのです。
ジャンはマックス・オフュルスについてこう書いています「彼の映画は死へ向かう一瞬に宿るまばゆい光をとらえている」。そう、最後の瞬間までジャンは「まばゆい光」に包まれていました。彼の人生のあらゆる瞬間が選ばれ、欲せられ、豊かでした。ジャンは古代ローマの王子のように死んでいきました。
何かを求めるその欲求、欲望以上に崇高なる倫理を僕は知りません。それを教えてくれたのはジャンです。そして僕はそこから僕のヒロインたちのひとりを生み出しました。それが『エスター・カーン』です。
ずいぶんと話が長くなってしまいました。最後にグザヴィエ・ボーヴォワ(映画監督)への敬意を表して終わりにしたいと思います。親愛なるグザヴィエ、ジャンと君は本当に素晴らしいふたりだった。(注2)
(注1)「La Septième Obsession(第七オブセッション)」は2015年10月にセシル&トマ・アイダンらによって創刊された隔月出版の映画雑誌で映画についての思考を行っている。「絶えざる問題提議、読者との真の対話、押し付けられたドグマも優越感もない開かれた思考をこの批評雑誌の土台とする」。La Septième Obsession オフィシャルHP
(注2)カレーの高校生だったグザヴィエ・ボーヴォワはジャン・ドゥーシェの講演を聞き、映画に目覚め、高校を中退し、パリに上京、ドゥーシェの家に居候し、長らく共同生活をしていた。彼の長編二作目『N'oublie pas que tu vas mourir(君が死ぬことを忘れるな)』にも出演している。デプレシャンの言葉からもふたりが生涯、かけがえのない友人、家族のような関係であったことが伺え、そのことはドキュメンタリー『ジャン・ドゥーシェある映画批評家の肖像』の中でボーヴォワ自身も語っている。