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February 9, 2020

『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド
結城秀勇

[ cinema ]

 リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)がワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)に出会うあの冒頭のシーンの、妙な気持ち悪さはなんなんだろうか。備品補充係としての勤務の初日から、仕事に必要なペンもテープもしっかりそろっていて、さらにはゴミ箱の中身からワトソンの好物だと推測されたスニッカーズさえしれっとキャビネット内に補充済み、という普通の意味での気持ち悪さもあるのだが、それはまあリチャードが実はわりと仕事できるやつだ、で済ませてもいい。でも、あそこでワトソンが言う、「なんで"I 〜"(僕は僕は)ってばっかり言うんだ?」という言葉の真意を測りかねたまま、その後の展開を見ていた。もっと英語ができたなら、あの一言からリチャードの具体的な人物像が浮かび上がったりしたのだろうか。
 予告編その他の宣伝のあり方や、書かれた文章を読んで、その中に出てくる「英雄」という単語を見ても、まあイーストウッド最近そういう映画ばっか撮ってるよね、と思っていた。しかし実際に映画を見ると、これ英雄についての映画じゃないよね?という気がする。別に監督イーストウッドが、「彼のような人間こそが真の英雄だ」的なコメントをしてようが関係ない(ただの推測です)。だってリチャードは一度も「私は英雄です」なんて言わないじゃないか。冒頭でワトソンに「なんでアイアイ言ってんだ」と言われたリチャードは、その後もしきりにアイアイを繰り返すわけだが、しかしそのアイが同定される場所は、決して英雄ではないはずなのだ。事件の翌日にテレビに出たリチャードはこんなことを言う、「僕は英雄じゃなくて普通の人です。英雄っていうのは、あのときみんなを助けようとしてケガをした警官や警備員です」。
 ではリチャードは繰り返されるアイアイの中で、自分をいったいなにに同定するのか。それは一言で言って法執行官だ。その言葉がリチャードにとって英雄の一側面を意味しようがしまいが関係ない。リチャードは自分は「英雄ではない」が、「同じ法執行官である」ことをひたすら主張するのである。そこにこの映画の居心地の悪さがある。この作品の構成上、リチャード・ジュエルが実は爆弾魔であった、などという可能性が微塵もないことを観客は知っている。ではその無実のはずのリチャードが、法の名の下に強引に有罪にされていってしまうのか、ということにハラハラするのが居心地の悪さの原因なのかと言えばそれも微妙に違う。FBIたちのやり方はあまりに杜撰で、刑事事件専門でもない弁護士でも相手どれるくらいに、こりゃ立件は無理だ、な感じなのである。実態はそれとは逆なのだ。観客を居心地悪くするのは、リチャードがもしかして有罪であるかもしれない可能性でも、無罪が有罪に転がされてしまうかもしれない権力への恐怖でもなく、間違いなく無罪なはずの人間にどこまでもへばりつく有罪らしさ、なのだ。
 そして、この有罪らしさの大部分が、リチャードにとって自らを法執行官とみなすために必要なことであることこそが、本当に恐ろしい部分だ。パイプ爆弾に詳しいことも、とんでもない量の銃火器を所持していることも、FBIの証拠品押収の理由に詳しいことも、どんな他の疑いよりもゲイであるという疑いを晴らしたいことも、すべては彼の思う法執行官像がそうだからだ。彼が「法」に自己同一化しようとすればするほど、彼は「法」に照らして有罪らしくなる。もちろんこの作品に限定すれば、そうなる理由はリチャードの容姿や社会的地位もおおいに起因してはいるのだが、とてもこれがリチャードという特殊な個人に限った状況だとは思えない。たとえば『パラサイト 半地下の家族』について書いたような、自らを搾取するシステムを自発的に支える者たちとリチャードが無関係には思えない。
 『リチャード・ジュエル』において、法権力とマスコミによって窮地に立たされたリチャードを救うのは、それらに対抗しうるなにか別の力ではない。それらはただ、自らの誤ちを取り繕うことができぬまま自壊する。あの、ドーナツショップのあまりにもあっけない、薄っぺらい紙切れ一枚を介したやりとり。そのこと自体はなにも希望に満ちたことなんかではない(まるでどこかの国の内閣の、単に追求されて然るべき諸々の事柄と同じように)。だが『リチャード・ジュエル』には、権力の自壊以上に、なにかリチャードの存在を根本的に変えてしまうようなものがある。FBIとの直接対決に臨むリチャードは、部屋に入る前に鼻白んでいた。「だってあそこにいるのは"合衆国"連邦捜査局だよ」。対してワトソンはこう諭すのだった。「あそこにいるのは"合衆国"じゃない。"合衆国"に雇われた3人のクソ野郎だ」。
 「合衆国」と「合衆国に雇われた3人のクソ野郎」の違い。それが「英雄」と「法執行官」との間にうっすらと横たわるものである。この映画を通じてリチャードは「英雄」へと昇格するのではない。ただ、「合衆国」と「合衆国に雇われた3人のクソ野郎」の違いを学び、「英雄」と「法執行官」との違いを目の当たりにする。映画のラストで、リチャードは元法執行官という肩書から、まぎれもない法執行官へと変化している。だがそれは英雄でもなんでもないただの法執行官だ。彼を一目見たワトソンは「見違えたぞ」という言葉を残すが、それは観客の誰もが思うであろう気持ちを代弁している。丸刈りになった髪型、剃られた口髭、そして、消えたほっぺたの赤み。警察署のカウンターにたつリチャードはそれまでとまるで別人だ。
 そして我々は、リチャードが無罪であることを確信しながらも、彼のほっぺたに張り付いた赤みという有罪らしさを通してしか、彼を見ることができていなかったのだ、と愕然とする。映画の中盤で彼が叫んでいた「I am me!」という言葉の意味をそこで初めて知る。ポール・ウォルター・ハウザーのあの顔は、『フライト』のラストのデンゼル・ワシントンにも匹敵する、英雄にも罪人にもなることを拒む者の顔だ。

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