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February 15, 2020

『ジョジョ・ラビット』タイカ・ワイティティ
隈元博樹

[ cinema ]

 ヒトラーユーゲントの小さな軍服を身に纏った少年ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイビス)は、空想上の友人であるチョビ髭面のアドルフ(タイカ・ワイティティ)から正しい「ヒトラー」のイントネーションを叩き込まれている。過剰なまでの連呼合戦によってアニマル浜口ばりの気合いを注入された彼は、「ハイルヒトラー!ハイルヒトラー!」と快活に喚き散らしつつ、ドイツ版「I Want To Hold Your Hand」のメロディーに乗って第二次世界大戦下のドイツの街へ颯爽と繰り出していくのだが、妄想を含めた登場人物たちとのテンションと、冒頭の時代背景とのズレに思わずニヤけてしまう。加えてジョジョが参加するユーゲントの合宿の場面は、全体を指揮するクレツェンドルフ大尉(サム・ロックウェル)の道化っぷりも相俟って、激化の一途を辿っていたはずの戦中とは無縁の、どこか牧歌的側面も否めない。肉弾戦を想定した敵方へのオフェンスやサバイバルナイフさえ一様に使いこなすことのできない青少年たちからも、その光景はまさに小学校で行われる体育の授業のよう。大丈夫か、このプログラム......。そんな不安と脱力に見舞われるなか、ユダヤ人への迫害意識とヒトラーへの忠誠を誓うジョジョたちを見ては戦中教育のおぞましさを感じつつも、それとは別次元に生じる諧謔さと胡散臭さによってこの映画は突き動かされているようにも感じる。
 ただ、こうした胡散臭さに満ちた人物たちや物語の存在こそ、ワイティティならではの映画だなと思うこともまたしかり。それはここでも書いたように、無垢なる信念を抱いたジョジョをはじめ、紙素材の軍服やロボット型の段ボールを着て戦う親友のヨーキ(アーチー・イェーツ)は、脱獄犯であるはずの父を英雄として慕う『BOY』の少年や超能力が使えると信じ込む弟の姿と重なるし、戦争に勝つことよりも軍服の意匠にこだわり続けるクレツェンドルフ、あるいはジョジョの前に時折現れる空想上のアドルフは『マイティ・ソー バトルロイヤル』のグランドマスターを彷彿とさせるだろう。やがてジョジョたちの信念が間違いであり、胡散臭さ満開の大人たちが体現する振る舞いに亀裂や別れが生じたとき、ジョジョは『BOY』の少年と同じようにして、自ずとその間違いを受け入れていくこととなる。
 その引き金となるのは、ワイマール共和国時代からのブルジョアな衣裳に身を包み、ワインやダンスを好む母のロージー(スカーレット・ヨハンソン)がナチスへのレジスタンス活動を秘密裏に行っていたことであり、彼女が自宅の隠し部屋にユダヤ人のエルサ(トーマシン・マッケンジー)を匿っていたことでもある。やがて訪れるナチズモたちの自宅聴取も、エルサの婚約者に成り代わって書いた手紙も、そしてロージーの死も、自身の身に降り注がれたいくつかの紛れもなき事実として受け入れることで、ジョジョは間違いに隠された正しさの所在を知っていく。かつて野生のウサギさえ殺せないことをユーゲントの青年たちに「ラビット=弱々しい奴」と揶揄された彼は、殺すための強さではなく、森の中へ放してあげるための弱さを進んで手にするのだ。
 毎度ロージーに結んでもらっていた靴紐を自らの手で結べるようになった今、ジョジョにはナチスからの迫害を免れたエルサとの生活が待っている。アドルフも目の前から消え去ったかと思えば、ヨーキからはヒトラー自殺の知らせが舞い込んでくる。こうしてワイティティが描く不真面目な真面目さは、この『ジョジョ・ラビット』においてもたしかに通底している。そして画面上に漂う胡散臭さとは、正しき間違いを知った健気なジョジョだけに向けられたものではない。スクリーンを見つめる私たちとの共犯関係を通じて、そこはかとなく漂っていることだろう。

全国ロードショウ中

  • 『BOY』タイカ・ワイティティ 隈元博樹