『春を告げる町』島田隆一
結城秀勇
[ cinema ]
「漬物あげてくっか」
「いーがらいーがら!......持ってきたら食うげんとぉ」
全員爆笑。
仮設住宅の茶の間で繰り広げられていたそんな寄り合いが、ものすごい速度で解体される。引越しの準備をし、ボランティアの人がやってきて荷物を運び出し、人が出て行き、まだ扉も閉めず話をしている最中なのに車が走り出す。その見事な編集の速さに目を奪われるとともに、この速さこそ彼らが被った状況の核心を示しているとも感じる。当人たちの決断や意志とは関係のないところで計画通りに進められていく大きななにか。小森はるかと瀬尾夏美が 『二重のまち』 で描いていたように、その速度は当人たちを追い越してすべてを覆い尽くしてしまう。「彼ら」と書いたが、それは「我々」であってもおかしくない。
それでも人々は、すべてを覆い尽くしていく速度の直中で、あまりにもゆっくりとした、ほとんど進捗のわからない遅さで、自らのまわりにあるものをガバナンスしようとしている。問題の核心がわからないまま、どこへ向かえばいいのかもわからないまま、進められていく「復興」についての演劇の準備。震災以前から中止していた祭りの再開に向けての準備。いったいそれらの状況のなにが改善され、なにが前進したのかも観客にはよくわからないまま、それでもカメラはその場にい続け、季節は巡り、ヒヨコみたいだったのが立派なアヒルになる。おそらくその遅さに向き合う態度こそがこの作品の本質だろう。
祭りの再開の議論で、これは震災で中断した祭りではなく、それ以前から高齢化と過疎化による人手不足で開催できなくなったものなのだから、このタイミングで再開しようとしてもその手立てがない、というような意見が出る。その議論の中で「文化財保護審議委員」という肩書の女性が次のようなことを言う。日本中にあるどんな祭りも、一度として中断していないものなんてまずない。歴史の中には祭りよりも生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められたことが必ずあったはず。だからここで祭りを再開するにしても、しないにしても、それを記録するのは歴史の一部なのだ、と。
また祭りの再開への議論のために、地域住民の家をまわり声がけをしていた女性は言う。かつてブラジルで暮らして日系人たちと親しくなったこと。ハンセン病の施設で働いていたこと。そしていまこの福島で働いていること。そのみっつの場所で、「棄民」というキーワードを耳にしたこと。
いま私たちのいる世界中が前例のない速さの流行に囚われている。日本はまだそのことに対する危機感に乏しいとしても、その速度は私たちが気づく前に追い越して世界を覆い尽くした。選択の余地のないその速さの直中で、それでも自らがなにを「棄」て去りなにを「棄」てずに残すのかをじっくり見つめたい。だから、未だ帰ることのできない家の、もはやゴミ置き場に変わった部屋にあるピアノを、白い防護服に身を包んだかつての持ち主が奏でる姿に、涙が堪えられない。だれがどう見てももうすっかり「ばあさん」なのに、この映画が完成する来年には「ばあさんになっつまう」と言う老婆を抱きしめたくなる気持ちを抑えられない。