『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』平良いずみ
結城秀勇
[ cinema ]
沖縄の言葉、ウチナーグチには「悲しい」という言葉がない。それに近いのが「ちむぐりさ」だが、それは自分が悲しいんじゃなくて、誰かが悲しんでいるのを見て「ちむ=肝」が苦しくなる気持ちなのだ。そう語る冒頭のナレーションの背後で、ザ・フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」のウチナーグチバージョンが流れている。
「悲しくてやりきれない」が、発売中止になった「イムジン河」のメロディを逆にたどって作られたという製作秘話(神話?)は有名だが、そもそも「イムジン河」が発売中止になった背後には歌詞の問題があったのだとWikipediaには書いてある。朴世永の作詞によるプロパガンダ的な含みのある歌を、作者不明の朝鮮民謡、一種のプロテストソングだと勘違いした松山猛とザ・フォーク・クルセダーズによって、日本語版「イムジン河」は原詩よりもはるかに「ちむぐりさ」に近い内容になった。豊かな「北」にいる者が貧しい「南」の故郷を心配する歌が、より抽象的な分断を嘆く歌になった。松山猛と「イムジン河」の出会いのエピソードを原案とする井筒和幸『パッチギ!』では、沢尻エリカをはじめとする女性陣は、対立する陣営の間に、まるで河のように取り残された者たちではなかったか。朝鮮半島、沖縄、ベトナム。そのどれも、自分たち自身の悲しみや痛みだなんて偉そうには言えない。でもだからこそ、悲しくてやりきれないのだ。
『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』は沖縄の学校に通う石川県出身の当時高校生の少女を主人公としている。この作品の試写を映写していて、何度も何度も必ず号泣してしまった箇所がある。辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票で、投票者の7割が埋立てに反対という結果が出たにもかかわらず、当たり前のように埋立てが進められていく状況の中で、少女は辺野古の海を訪れる。そこで出会った漁師は、彼女に沖縄は「植民地」だからしかたない、沖縄だけでなく日本が「植民地」なのだからしかたないのだと語る。それを聞いていた彼女は、涙を堪えきれずにこう言うのだ。自分の故郷の石川県でもかつて内灘闘争という米軍の接収に反対する運動が起こった。それを嚆矢として日本全国に基地反対運動が広がったが、それが沖縄返還のタイミングと重なったが故に、私たちは基地を沖縄に押しつけてしまったのではないか、と。
それを聞く海人はこう言うのだ。綺麗な海を見に来てなぜ泣くのか。泣くな、辺野古の海を見たら、笑って帰れ。
差別、セクハラ、パワハラ、DV、あるいは大勢の障害者を殺した男に下された死刑判決。そうした事柄について当事者ではない者が語る言葉の中に、まるで自分は語っている事柄とまったく関係がないような口ぶりのものがある。まるで自分が語っている対象は、自分が含まれないどこか別の世界でもあるかのような。そうした言葉は道義的に批判されるべきだというだけでなく、エピメニデスのパラドックス(クレタ人であるエピメニデスが「全てのクレタ人は嘘つきだ」と言った)のような論理的なひっかかりすら覚える。どんな状況を限定して言葉を発しているのか。それを発するあなたはその状況のどこにいるのか。
統計的な偏りが多少あるのだとしてもほとんど"無差別"に人類を襲っているように思えるウィルス禍の中で、決して「自分だけは大丈夫」などとは思えない状況下で、「ちむぐりさ」という感情の重みがはるかに増した世界で、私たちは生きているのではないかと思う。