『37セカンズ』HIKARI
二井梓緒
[ cinema ]
スーザン・ソンタグは、『隠喩としての病』の中で病気それ自体よりもそれに付随する隠喩や言葉のあやが一人歩きしているという。彼女がいう病気はとりわけ目に見えないものであるが、障がいもそれに当てはまるのではないだろうか。
まだこのような状況になる前、アップリンクに通い詰めていた時期によく流れていた『37セカンズ』の予告を見てそんなことを考えていた。それだけでなんだか満足していたし、気づけば映画館は閉まっていたのだが、そんな中Netflixでの配信がスタートしていたので見てみた。
「どうぞ」と言う主人公ユマの言葉から映画は幕を開ける。ほとんど何の予備知識もなしに見たので、ファーストシーンからしばらく、ドキュメンタリーなのかと錯覚してしまった。しかしその後、母を演じる神野三鈴が映され、劇映画であると気がついた。ユマを演じる佳山明の演技は初めから終わりまで、目を見張るものがある。
漫画家で幼なじみのサヤカのアシスタントであるユマはいない人間として描かれる。サヤカは自身の刊行イベントに訪れるユマを無視する。執拗に心配する母に対してユマは「誰も私のことなんて気にしてないよ」と言い捨てる。そんな中、ユマはある女性ーー舞ーーと出会い、別れ際「いつでも連絡して」と囁かれる。その瞬間、対向車のライトがユマにさす。それは彼女が前進するための光である。ここから物語は急発進する。この物語はユマ自身が、自分はひとりの女性であり、そしてこの世界に確かに存在するひとりの人間なのだと自己肯定していく物語だ。つまりこれは「障がい者」という括りを通り越した女性の物語というところが肝であるはずだ(そもそもユマが脳性麻痺であるということは物語の中盤で明らかになる。ここからも監督の「障がい」<「女性」を映したいという思いが感じ取ることができる)。
他の俳優陣の演技も見ものである。ユマの人生を大きく前進させるきっかけとなる舞を演じる渡辺真起子、そして介護士を演じる大東俊介、過保護すぎる母に嫌気がさしたユマは病院での検診中に母の目を盗みひとり外へと飛び出すわけだが、ここでの療法士を演じる石橋静河の演技も素晴らしい。また、色遣い(東京とタイの違い)、暗闇のなかでユマの心情を表すネオンの光、そしてユマの描く漫画の世界をアニメーションで煌びやかに表現したりと、画面はポップで明るい。それは彼女が障がい者だからとか、困難を乗り越えて、というよりも、純粋にユマの明るくてキラキラした性格を反映している。主題歌であるCHAIの音楽はそれを後押しする。
「いつか好きな人と結ばれたいなとかって思うんですけど、そんなの本当にかなうのかなって」とユマは舞に向かってこぼす。舞はそれに対し、「障害があろうがなかろうが、あなた次第よ」と答える。障がいがあろうがなかろうが、私たちは出会うひとによって大きく人生が変わったりする。そして環境はいままでもこれからも、自分次第でいくらでも変わるのだ。そんなことを思い出させてくれる作品だった。
最後に、本作の注目すべき点はひとりの女性に深く寄り添った作品であるということだろう。映画の視線は常に低く、それはユマの視線車椅子からの眺めであるということに私たちは次第に気付く。監督の彼女を思う気持ちが画面いっぱいに溢れていて、HIKARIへの期待は高まるばかりである。