『The Green Fog』ガイ・マディン、エヴァン・ジョンソン、ガレン・ジョンソン
結城秀勇
[ cinema ]
「映画のはじめのほうで、ジェームズ ・スチュアートがマデリンのあとをつけて墓地にやってきたとき、彼女をとらえたショットはすべてフォッグ(霧)フィルターをかけて撮影し、ぼんやりと夢のような、謎めいたムードをだすようにした。あかるい太陽がかがやいているところに一面に霧がたちこめているような、淡いグリーンの色調だ」(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』)。ヒッチコックのこのような発言を見るなら、『めまい』を「緑の霧」という象徴のもとにリメイク(?)する試みも頷ける。だが『めまい』において本当に文字通り霧(のようなもの)が緑色をしているのは、ジュディがスコティの注文通りに髪を上げて出てくるあの場面だけだ。むしろ『めまい』における緑は、マデリンの車の色、マデリンとジュディともに最初に画面に姿を現すときの服の色なのにもかかわらず、同定を促す色というよりも、そのようにも見えるが決して確信を得るにはいたらない、不断の疑惑の色だと言えるだろう。マデリンの服はグレーのスーツでなければならず、ふたりの女が同一人物であるためには赤いルビーが必要なのだ。
『The Green Fog』はサンフランシスコを舞台とした100本以上の映像作品から場面を抜き出して、『めまい』を再構成した作品である。屋上のチェイス、海への身投げと救出、塔からの飛び降りなど、思いのほかちゃんと『めまい』の筋を追ってる!と驚くのだが、しばしば文字通りの「緑の霧」が、『めまい』とも抜き出されたカットの元の作品ともまったく無関係に画面を横切っていく。
むしろ気になるのは、この作品の明らかに『めまい』を逸脱した構造の方だ。「プロローグ」というかたちで『めまい』のストーリーが始まる前に置かれた、ロック・ハドソンがなにかの捜査資料である映像(?)を見ているようなシーン(「署長マクミラン」というテレビシリーズなのだそうだ)。どうも『めまい』のストーリーらしきものは彼の見ている映像内映像の中で展開しているかのようにも見え、しばしば挿入される盗聴やフィルム映写、テレビ等の入れ子構造と、さまざまな作品からの抜粋であることによる登場人物の同定のつかなさから、『The Green Fog』のストーリーを物語る登場人物たちはほとんど男と女といった抽象的なレベルの役柄へと還元されていく(そもそも『めまい』のジェームズ ・スチュアートは探偵役だったのか、それとも狂言自殺の筋書きに利用されたただのカモだったのか)。そしてロック・ハドソンが捜査対象(?)の部屋で女性が映された映像を見ているときに、その当の女性が部屋に入ってくる場面(おそらく『ローラ殺人事件』からインスパイアされたのではないのだろうか)では、このメタ的な位相にいるはずの人物たちですらもが「すでに死んだはずの女」という物語に巻き込まれていることを示している。
『The Green Fog』がもたらす『めまい』の解釈とは、これが単なるひとりの男のパラノイアックな妄想の物語などではなく、マデリンという女性のイメージが実際にサンフランシスコの街中に増殖していたのではないかという可能性だ。映画のラスト、ジュディは自らがその増殖に加担した映像そのものに脅かされて、塔から転落したのではないのか。そしてこの増殖する映像に脅かされるのは物語の中の男と女だけではなく、あの放心したチャック・ノリスのような顔でこの作品も見つめる我々もなのではないか。