『コジョーの埋葬』ブリッツ・バザウレ
池田百花
[ cinema ]
父のコジョーは7年間同じ夢を見た 夢では海が地を飲み込み炎が燃え盛っていた 父は誰にもこの夢のことを話さなかった それがただの夢ではなかったことも それはむしろ記憶のようなもので 忘れられない記憶のようなものだった
若い女性のモノローグによって誘われるのは、彼女が生まれる前、ある辛い出来事を経験し心に傷を負った父が引っ越して来た、水だけに囲まれた遠い村だ。彼は、水だけが過去を浄化できると信じてこの村にやって来た。水によって周囲の世界から距離を置くこの村には、外の世界とは異なる独特な空気が流れていて、現代の社会を舞台にした物語であることが示唆されながらも、どこか架空の場所で起こっているような感覚を抱かせる。外からこの地を訪れる人々が、細長い舟に乗ってやって来るのも象徴的で、それはまるで現実と異界とをつなぐ渡し舟のように見える。また、物語が一貫して、いまという時からから一定の時間を遡った少女時代の女性の視点から語られることにより、画面に映っている空間は曖昧さを増し、夢と記憶、現実と異界など、さまざまな境界が混ざり合う特別な空間が広がっている。
村にやって来る人たちのうちのひとりに、少女の父の兄であり、彼女の叔父にあたるクワベナがいる。そして、昔、彼の結婚式の夜に起こった悲劇が、父と叔父の間に深い溝を生み、そのことによって長い間父が苦しめられてきたことが明らかになっていく。彼ら兄弟をめぐる関係性から想起させられるのは、旧約聖書の創世記に収められたカインとアベルの物語だ。人類最初の殺人の物語として有名なこの挿話では、ふたりが神に捧げた供物のうち、弟アベルの供物だけが受け取られ、兄カインは顧みられなかったことから、怒った兄は弟を殺害してしまう。この挿話をはじめ、聖書の物語は映画の伏線として物語を導き、少女が両親と参加する、村の司教が行う説法でも、後のコジョーの運命を暗示するようなヨセフの物語が語られる。
クワベナの存在が顕著に示しているように、この映画において、外から村に入って来る人々は、村を囲む水が作る閉じたきれいな円の中に、異質な点のごとく混じり込み、良くも悪くも、平穏な村の生活に荒波を立てていく存在として描かれているように感じられる。少女が見る夢に、物語の核のひとつとなっている不思議な大きなカラスが現れて彼女を脅かすようになるのも、クワベナと同様、船で外から訪ねて来た人物との出会いの後からだった。父によれば、その盲目の老人は「境界の世界」からやって来て、天と地が出会うその地では、人々は逆さまに歩き、カラスが世界を統べていて、聖なる鳥を捉えようとしている。そして老人は、純粋な心の子どもだけがその鳥を護ることができると言う。
これらの謎めいた物語の数々は、映画の冒頭で少女が生まれた夜に父が見た幻想的な夢として登場した光景が、後半になってもう一度繰り返される場面を境に、一気に解かれていくのだが、ラストへと向かって加速するこの一連のシークエンスは、画面に魔法がかかったような仕掛けに満ちている。夢の中で、光り輝く空から少女がさしている傘に降りそそぐ黄金の雨、その夢から啓示を受けて、父を救おうと駈ける彼女を後ろから捉えるショット、その先で彼女を待っている森を照らす幻想的な光。そこで、かつて老人から聞いた鳥たちの物語が、父と叔父の物語と結びつき、すべてがつながっていく。こうして動と静が交互に織りなされるダイナミックで美しい画面がつらなり、語りの声が時空を超える時、過去が、夢が、そして物語が私たちの前に優しく立ち現れてくる。
3月に『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー vol.7』アップリンク渋谷にて上映され、現在vimeoにて日本語字幕つきで視聴可能