『アンカット・ダイヤモンド』ベニー・サフディ、ジョシュ・サフディ
佐藤彩華
[ cinema ]
ジョシュとベニーのサフディ兄弟は、今や米インディペンデント映画界で最も注目を集める重要な若手映画作家のひとり(ふたり)だ。ユダヤ教徒の家庭に生まれニューヨークで育ったふたりが、同じくユダヤ系のアダム・サンドラーを主演に迎えた新作『アンカット・ダイヤモンド』は、強烈なインパクトと狂気を孕んだ一作で、1/31にNetflixでリリースされてから日本でも評判が評判を呼んでいる。それもそのはず、2010年に脚本の初稿を書き上げてから、宝石問屋街でのリサーチ活動、幾度ものキャストの降板や脚本の書き直しを経て、約10年間かけてふたりが取り組んだプロジェクトなのだ。ちなみにその間には長篇3作目のドキュメンタリー『Lenny Cooke』(2013)、マンハッタンで路上生活を送りドラッグに溺れる若い女の物語『神様なんかくそくらえ』(2014)、犯罪を重ねた男の破壊的な逃走劇を描いた『グッド・タイム』(2017)などを制作している。
『アンカット・ダイヤモンド』は、ユダヤ人が牛耳るニューヨークの宝石問屋街を舞台に、時にいがみ合う人間たち、都市の裏側のディープな世界を切りとっていく。アダム・サンドラー演じる宝石商のハワードは重度のスポーツギャンブル中毒で、借金まみれでも欲望のままに一瞬の夢に縋るように金を賭けてしまう、ほとほとどうしようもない男だ。用心深さとは無縁のこの男が繰り広げる物と物、物と金の交換が物語を蛇行させながらあらぬ方向に推し進める。
いくつもの問題を抱えるハワードの喧噪の日々の有様が最も過剰なかたちで現れているのが、店の奥にある事務所で複数の電話に同時進行で対応するシーンである(着ている服のタグもつけっぱなし!)。思えばサンドラーの魅力は、あらゆる面倒ごとに巻き込まれせわしなくその解決に追われる役を演じる時にこそ発揮されてきた気がする。電話といえば『パンチドランク・ラブ』(2002)で演じたバリーという愛すべきキャラクターがすぐに思い浮かぶし、近作の『ウィーク・オブ・ウェディング』(2018)では、娘の結婚式を数日後に控え、家にやってくる大勢の訪問客を出迎えつつ、休みなく発生するトラブルの鎮火に奔走する父親を演じていたが、もはやお手の物という感じだった。そんなバタバタな状況下でこそ輝くサンドラーのコメディセンスを熟知し信頼しているサフディ兄弟の演出力が光る。
不思議なことに、何度か観るうちに、徐々にハワードにかすかな愛着のようなものも抱きはじめる。それは、ハワードにとって(そして観客にとっても)ひとときの"休息"が何度か与えられているからだろう。例えば、子どもたちとコミュニケーションを図ろうとする父親としての時間、いつかは捨てられるのではないか、と半分は怯えながら愛人ジュリアと愛を確かめ合うつかの間の幸せ、散々たる一日の終わりに事務所でひとり眠りにつく夜──。ほんの一瞬だけれど、そんな「自省」の時間も描くことで、ハワードという男を完全には憎みきれないキャラクターに仕立てている。
本作では、舞台となる2012年当時のケビン・ガーネットやザ・ウィークエンドを本人に演じさせてしまっているのがすごい。出演者にサプライズがあるのもサフディ兄弟作品の特徴と言える。素晴らしい演者が揃っているが、クライマックス、試合中継を熱狂して観戦するハワードをこれでもかというほど醒めた目で眺めている義兄のアルノを演じるエリック・ボゴシアンの顔が最高に効いている。ちなみにオークションのマネージャーであるアンの電話越しの声を演じているのはティルダ・スウィントンだ。
また、入り口が二重ドアになっていることや、人が出入りするたびにブザー音の鳴るボタンを押さないと施錠解除されない仕組みなど、セットで再現した宝石店の構造にもサスペンスや焦らしを生み出す仕掛けが施されているのも見どころのひとつ。
ギャンブル、スポーツ、ギャング、成功者とその周辺の生々しい世界、ユダヤ人社会、金、金、金......。そして結局オパールは物語を動かしクライマックスを盛り立てる道具に過ぎなかったというオチ。さまざまな要素、ジャンルが一緒くたにトルネードのように渦巻きながら立ち昇り、絶頂から突き落とされる。こんな映画、間違いなく観たことがない。
サフディ兄弟は「神様なんかくそくらえ」以降の3作品で、出口のない無限ループ地獄に閉じ込められたような人々を描いてきた。その場をやり過ごすように生きる彼らは、他者と関係を築くこともままならず、やがて破滅へと向かう。3作品ともに、残された者のその後の姿で締めくくられているのも興味深い。誰が生きようが朽ち果てようが関係なく、当たり前に続いていく日常が虚ろに横たわっているのである。
舞台となる世界について十分にリサーチを行い、物語とは直接関係のない登場人物の経歴まで詳細に作り上げるなど、綿密な下地を準備した上でフィクションを構築していくサフディ兄弟のユニークな試みに今後も期待せずにはいられない。
ところで本作、アダム・サンドラー史上最高の演技、と評されている。いや、たしかにそうかもしれない。けれど、あえてこう言いたい。彼のパフォーマンスはいつだって最高だったじゃないか、と。海外コメディ映画の劇場公開本数が少ない日本では、現代アメリカのコメディ界を牽引してきた大御所たち──サンドラーのほか、ベン・スティラーやスティーヴ・カレルさえもそのキャリアと功績が正しく認知されているとは言い難い。それを示すように、『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(17)がNetflixで配信されるまで、サンドラーは『パンチドランク・ラブ』の人として紹介されがちだった。Netflixやアマゾンプライムビデオが配信サービスをスタートさせる前の2010年代半ばまで、日本におけるコメディ映画の受容状況の乏しさは評論家たちによって度々嘆かれてきたが、それは同時に日本人のコメディ映画に関する素養やコンテクストの欠如を憂いてもいたからだと思う。しかし今や、ストリーミング・サービスで多くの未公開作品も観られるようになった(おまけに、サンドラーは近年Netflixと契約し主演作を撮り続けている)。コメディ映画の森に分け入り、その豊かな系譜に触れるチャンスを逃す手はない。
光の当て方しだいでどんな色にも輝く宝石のように、ひとりの俳優からいくつもの新たな魅力が引き出され躍動している映画との出逢いはいつも震えるほどに嬉しい。これだから映画を観るのをやめられない。