『ギャスパール、結婚式へ行く』 アントニー・コルディエ
池田百花
[ cinema ]
物語は、そのタイトルが示す通り、主人公の青年ギャスパールが父親の再婚の結婚式に出席するため、動物園を経営する実家に向かうところから始まる。旅の途中でローラという女性と出会った彼は、久々に再開する家族の手前、彼女に恋人のふりをしてほしいと半ば無理やり説得し、ふたりを乗せた電車は舞台となる動物園に向けて走り出す。ローラを演じるのは、『若い女』(2017、レオノール・セライユ)で強烈な魅力を放っていたレティシア・ドッシュだ。映画の冒頭から彼女の存在自体が予感させるように、『ギャスパール〜~』もやはり一筋縄ではいかない物語で、偶然の男女の出会いや疎遠になっていた家族との再会が待ち受ける展開という定石が用意されながらも、作品のプロットはそのレールから愉快に外れていく。
映画の舞台となるギャスパールの実家の動物園では、彼の父とその再婚相手の他に、兄と妹も一緒に生活しながら働いている。主人公のふたりがここに到着して間もなく明かされるのは、昔母親が園内で飼育していた虎に襲われて命を落としたという事実で、それはこの土地が一家の辛い歴史と結びついていることを示す衝撃的なエピソードとして何度も語られることになる。本作に寄せられた批評の中に、この映画がウェス・アンダーソンの作品を髣髴とさせるという声がいくつか挙がっていることは興味深く、フランスの『リベラシオン』に寄稿されたマルコ・ウザルの記事では、特に『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001、ウェス・アンダーソン)との類似ーーエキセントリックな家族の歴史や、未熟な父親に対する反応、そしてうまく解決されなかった幼年時代や未完の喪に深く根を下ろした兄弟姉妹のメランコリーなどーーが指摘されている。さらに、物語上の主要人物は設定されていながらも、それ以外の登場人物たちひとりひとりの特異な存在感が損なわれることがない点も、ウェス・アンダーソンによるキャラクターの描かれ方と共通しているのではないか。ウザルによれば、そうした人物描写は、「どのように孤独であると同時に愛する人々の間で存在できるようになるか、自由であると同時に結びつきを持てるようになるか」というシナリオの主要な問題のひとつにも関わっている。まさに、そうやってどのキャラクターが抱える痛みや不器用さにも分け隔てなく光を当てる手法は、それぞれの特異性を尊重するとともに、ある社会の中で自らの存在のあり方を模索する彼らの姿を見せてくれる。
また、各々が独特の個性を持つギャスパールの家族の中でもとりわけ際立っているのが、クリスタ・テレ演じる妹のコリーヌだ。彼女は、『ロバと王女』でロバの毛皮を被ったカトリーヌ・ドヌーヴのように、いつも熊の毛皮を身に付けていて、兄であるギャスパールに対して近親相姦的な愛情を寄せている。先に挙げた記事の中でウザルは、彼女が『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のマーゴ(グウィネス・パルトロウ)を思い起こさせるとも述べているーー自分の感情を偽り、身を隠すことを好み、兄弟のひとりに対して感じる道徳に反した愛情に閉じこもったふたりの野性的な若い娘たち(les jeunes filles sauvages)ーー。コリーヌが幼少期からずっと被っている熊の毛皮もその象徴的な小道具として、彼女が常に自分の身を守るためのものを必要としていることや、子供時代の自分から抜け出せないことを表しているように感じられる。だから彼女が幼少期のギャスパールとの記憶を思い起こす時、そのフラッシュバックはいつまでも色褪せることのないノスタルジックで美しい映像として差し挟まれるのだろう。
ところが映画の中盤で以前から動物園が経営困難に陥っていたことが明かされ、一家が物理的にこの土地から離れることを余儀なくされる危機に直面すると、彼らはそれまで抱えていた問題と向き合わざるを得なくなる。母親の死という家族共通の喪の問題をはじめ、コリーヌの報われることのない兄弟への愛情など、それぞれが囚われていた過去から否が応にも抜け出さなければならない時がやって来るのだ。しかしその時、この家族が抱えているメランコリーは、感傷的な重苦しさや甘ったるさだけにその解決を求めることはしない。動物園という場所で引き出される彼らの野蛮さや残酷さ、さらには官能性といった野性的な側面が、メランコリックな感情と見事に溶け合い、彼らは譲歩すること、そして自分自身に課していた役割から抜け出すことを学んでいく。そこで表出する軽やかさは映画の最後に用意されたギャスパールのモノローグへと引き継がれ、成熟することについて語る彼自身の声として爽やかな余韻を残している。