『映画よ、さようなら』フェデリコ・ベイロー
二井梓緒
[ cinema ]
勤めはじめてからの25年間、ホルヘの居場所はずっと両親の代から続く映画館(シネマテーク)だった。年々映画館に足を運ぶ人は減り、賃料の支払いは半年以上遅れ、ついには財団から「シネマテークは営利事業とは言えない」と支援は打ち切られ、ついに映画館を閉めることになる(これはまさにいま、日本のミニシアターが置かれている状況ではないか)。閉館日、看板の灯りを消し、荷物をまとめてバスに乗ったとき、彼の頬には涙が溢れ出す。
涙でボヤける景色の中で、正面に立つ男がじっと自分を見ていることに気づき、焦って(ホルヘの身体とはあまりにも不釣り合いな、小さなハンカチで)涙を拭く。そうすると視界が(画面が)クリーンになる。こうした繊細なカメラに見惚れてしまう。
彼の真面目さは中盤までに流れる映画館での様子や仕事ぶりを見てわかる。館内の廊下でひとり、思いを寄せる女性ーーパオラーーに対し「コーヒーを飲みに行かない?」と誘いの言葉をかけるのを何度も練習する姿や、映画館の会員になるよう促す放送を何度も録ったり、ラジオ放送の録音時は目上の批評家の話をじっと聞き、うなずく。劇場の座席ひとつひとつに座って、座り心地を確認する。そうしたどうということない動作がただひとつひとつ正確に繰り返されていくことーーそれも25年もの間にわたって!ーーは、観客のために劇場を整備し、間違いのないようフィルムを装填し、そして観客を送り出すという映画館の仕事の本質に思えて、いまのような映画館に気軽に行けなくなってしまった状況だからこそ、どうしようもなくやるせなく映り、彼を救えないことが、画面越しの自分に対してさえも苛立たしい。
物語はほとんどが固定カメラで進む。しかし終盤、彼の心境の変化と共にカメラが急に動き出すシーンがある。それはバスを下車した後、車が行き交う道路を前にして、横断すべきか躊躇していたホルヘが、別の通行人が器用に車をすりぬけていくのを見て、自分もまた、ぎこちなくながらもなんとかうまく車をすりぬけ、パオラのもとへ向かう場面である。なんて美しいんだろう。そのあとの『駅馬車』のワンシーンが流れるシーンは言わずもがな、大学で女性を探しているうちに教授と間違えられ、代講をしてしまうシーンはもう幻(ファンタジー)のようで夢見心地になる。そこで嘘の講義をする彼は「嘘は尊い」と言い放ち、教室を去る。
25年ずっといた映画館を失っても、結局彼にとって映画こそが人生を築いてきた。思いを寄せるパオラへのデートの誘い文句は「コーヒーを飲みに行かない?」なんかよりも、「いまから映画を観にいかない?」なのがそれを決定づけているのではないか。それの方がよっぽど彼らしいし、ラスト誘われた女性は一瞬躊躇ったのち笑顔でうなずく。これは、『ニュー・シネマ・パラダイス』のような感動的なお涙頂戴映画では決してない。しかし私はそれを遥かにこえる映画への愛を深く感じた。
ちなみに本作のホルヘ役の男性は実際にウルグアイのシネマテークで働いているそうだ。なんとなく風貌がアンリ・ラングロワに似ていて愛おしい。『映画よ、さようなら』、いや原題である"La Vida Util"(賞味期限/生き甲斐のある人生)は、あっという間の夢のような、抱きしめたくなるような作品だ。