『アトランティックス』マティ・ディオップ
山藤彩香
[ cinema ]
「結ばれるべき青年と少女がいて、しかし少女には望まぬ婚約者がおり......」というあらすじから、「ああ、少女の心が青年と婚約者のあいだで揺れるのだろうな」と類推しにかかった自分の浅はかさを恥じた。少女エイダの心は青年と婚約者のあいだとで揺れてなどおらず、想いはずっと青年に注がれていた。では、なにがどのあいだで揺れていたのかといえば、青年と少女が初夜をめぐって此岸と彼岸を揺れていたのだ。
家の都合で望まない結婚をすることになったとき、少女エイダはスレイマンとの逢瀬を約束する。一家の幸福がかかっているために結婚を取り消すことはできないが、せめて不本意な相手との初夜がやってくる前に、スレイマンと一夜を共にしたいと彼女は願う。しかし、逢瀬を約束していたその夜にスレイマンは帰らぬ人となってしまう。ふたりの初夜は宙吊りになってしまったのだ。
エイダがスレイマンを突然に失い動揺するうちにも望まぬ結婚の話は進み、彼女が婚約者と過ごす最初の夜がやってきてしまう。しかし、新居でベッドの自然発火事件が起こったことで騒ぎの中でこの夜は明け、彼女の危機は回避される。事件を捜査する刑事は、エイダが結婚を厭うあまりにこの騒ぎを起こしたのだろうと推測して彼女を厳しく取り調べる。調べを進めるうちに、死んだはずのスレイマンを事件現場で目撃したという証言があがり、ここから物語は一気にオカルティックな気配を帯びはじめる。それにしても、ベッドを燃やすことでエイダが望まぬ相手と同衾することを阻止したのだとしたら、スレイマンは大胆なソリューションを思いついたものである。
さあ、死者と生者との共寝を実現しようというのだから、これまた大胆な手段が必要になる。スレイマンは、あろうことか彼女を厳しく取り調べたあの刑事に憑依してエイダのもとに再び現れる。
刑事の姿で突然家にやってきたスレイマンはエイダにとってすぐには受け入れがたく、一度は彼を拒んでしまう。しかし、かつて約束したとおりの海辺のバーで待ち合わせてエイダはあらためてスレイマンと対面し、彼はやっぱり彼なのだと受け入れる。そして物語終盤、ふたりが望んだ夜がやってくる。ブルーとグリーンの照明が降り注いで、そこはさながら海の中だ。彼女を厳しく詰問した刑事とエイダ、事件をめぐり対立したふたりが身体を重ねるというちぐはぐな光景になっていながらも、鏡越しにはスレイマンが自らの身体を通してエイダと交わる様子が映っている。他者の身体を、海の中のような空間を、あるいは鏡を、様々なものを媒介にしてようやくふたりは此岸と彼岸を越えた初夜を迎える。この夜なしには死んでも死にきれなかったスレイマンと、この夜さえあればその記憶をよすがにこれからを生きていけるエイダ。夜を渇望する理由は正反対ともとれるが、とにかくふたりはどうしようもなくこの夜を待ち焦がれていたのだった。
強烈に生と死が交錯した夜が明けると、揺れる海面のショットと共に「俺たちをのみ込んだ巨大な波の中に 君の瞳と涙だけが見えた その涙が俺を岸に引き戻すのを感じた」とスレイマンのモノローグが重ねられる。この作品において大西洋は三途の川だ。あの夜の約束が宙吊りになったまま望まぬ相手との将来に絶望しているエイダに呼ばれ、スレイマンはこちらにやってきた。そして、此岸と彼岸の狭間を流れる海の中で生者と亡者は待ち合わせ、肌を重ねたのだった。
冒頭、映像の中ではじめてふたりが出会ったとき、ふたりのあいだを大きな音をたてて列車が走っていた。そのシーンにおいて、ふたりは見るからに邪魔なそれを意に介さず目をばっちりと合わせ、やさしく微笑みあっていたのだった。スレイマンはこの世から去ったが、これは別れではない。此岸と彼岸の境、大西洋がふたりを分けたとしても、列車のシーンと同じように、彼らは目を合わせて微笑みあっていられるのだ。