『女帝 小池百合子』石井妙子
千浦僚
[ book ]
遅ればせながらこの書を読み終えた。
キモである現東京都知事のカイロ大学首席卒業やアラビア語ペラペラに関しては、ちょっと前の週刊文春やネットで出ているニュースと変わらない情報量だが、ネットにはこれに関する火消し記事もあり、そっちを見ていると古い話、大したことじゃない、という印象も受ける。だが本書を読むと、まず小池百合子氏がカイロ大学留学時代まともに勉強していないことと、実質なく卒業資格をとり、その後のキャリアからカイロ大学側にこの問題を封殺することを約させたのは確実だとわかる。そしてそういう人物がその流儀のままここまできてしまったこと、それがヤバいということも。カイロ時代の小池氏の同居人で証言者の早川氏(仮名)と本書著者の石井妙子氏は小池氏の報復や口封じを恐れている。それはまったく過ぎた心配ではない。
この書は5月末の刊行であり、当然6月2日以降出され、いま現在も何なのかと問われている「東京アラート」以前に書かれているが、それが政治家小池百合子が過去にたびたびおこなった無意味な自己の権力の顕示、やってるふりアピールの例と見事に一致していて予告的で驚く。
小池氏は84年にトルコ人留学生の声を取り上げトルコ風呂をソープランドに改称させるよう厚労省に陳情してそれを成功させたり、03年にクールビズの推進役として目立ったりしている。そういう成功体験のひとだ。05年にはアスベスト被害に関して環境大臣として「スピーディー、シームレス、セーフティな3Sの制度になるよう石綿新法をつくる」と発言しているが被害者の声を聞こうとせず、この新法は労災基準からかけ離れた低水準の手当となり被害者から嘘つきと罵られている。現在の「3密」「夜の街」「東京アラート」のルーツはここだし、このやってる感に乗せられた者は後で手痛い目にあうだろう。......いまと、これからの都民のことだが。
本書の著者石井妙子氏のものは他に原節子伝「原節子の真実」(2016年刊)を読んでいるのみだが、そのこととこの「女帝 小池百合子」を読んで、結びつき、思いあたることがある。私には正直、あの原節子伝を読みつつ自分のなかに忌避感が沸き上がるのを感じた。それまで信じていた、心地よく信じていたかった原節子神話を崩すものがあったから。そういう感想を読んだひとの発信でいくつも見たとも思う。そういうスキャンダルを正視したくない感覚、通りのよい物語を信じたい気持ちは多くのひとにあるのではないか。しかしそれが、小池百合子がこれまでうまくやってこれたことの背景であり、詳しく言語化されることのないサイレントマジョリティの"万事うまいこといっている"を支持し、批判的観点を憎む現行維持路線の培養土なのではないか。
あと、小説的に小さく展開をつくるところがあって、例えば小池氏と舛添要一氏の個人的な関係について舛添氏の名を伏せるがそれがわずか数ページの引き延ばしにすぎないとか、そういう書きぶりは私個人としては入りづらかったが、序盤、決めつけすぎでは?と感じた小池氏生来の顔の痣のことは終盤鋭く効いてくる。このことで、2016年石原慎太郎の政治生命はある意味終わり、当時の都知事選の小池優勢を決定づける。まあこれは記憶のある方は思い出し、そうでない方は本書を読んでいただきたい。そういうあたりには、こんなに面白くていいのかというおもしろさを感じてしまった。
......この、一種の怪物を生んだのは男尊女卑、女性蔑視の男社会だと思う。末尾に筆者による述懐として、小池百合子が女性の政界進出のトップランナーであるけれども、そこに実質や真の女性の活躍を拓いていく可能性や意味があるのか、という旨のことが記されている。そういうところはちょっと男性の書き手には書けないところで、あまり男女ということは言いたくないがそこはポイントだと思った。本書は全体として、小池氏が男性社会を打破し改革する女性の旗手、という素振りながら、やっていることは名誉男性としての自分ひとりのサバイブ、だと喝破している。小池氏の伸びていく経歴のなかの93年の衆院選旧兵庫2区の選挙時のエピソード、着飾る小池の靴はいつも同じでボロボロ、華美ではない土井たか子はしかし靴をローテーションして履いていつもピカピカ、というアングルからの紹介も変に印象に残った(女性記者が当時書いた記事から石井氏が抜粋、引用した)。
ところで、私はいいかげんなライター人生を送ってもいるせいでそういう資質や知識もないのに(つまり映画ライター、ツイッタラーの感覚のまま!)意外と政治関連の場にもいったりしてきた。過去十年内外で鳩山由紀夫氏、鴻池祥肇氏、マック赤坂氏などは生で対面し挨拶程度の応接をしたり話を聞いたりしてるし、現在主にやっているバイトでも大臣や野党党首には頻繁に取材し、質疑応答などもしている。いまの都知事選候補でも宇都宮健児氏、山本太郎氏は取材した。そこで感じるのは、政治というものの非人間性だ。最近幾度も生で話を聞き、表情を撮影し、時には質問して回答を得た厚労大臣だったり総務大臣だったりコロナ対策担当相だったりは、積極的に偽ったり、事態を糊塗しようとしているというよりも、新型コロナ感染症対策にしろ特別定額給付金にしろ専門家会議にしろ、ほぼ本気で問題ない、そして自分は何も悪くない、落ち度がないと思っている。そういう神経でなければやっていけないのだと思うがあれはなかなかに異様だ。一個人の感覚を超える在り方を求められて変質した人間となる、それが政治の人々だ。まだ生で小池百合子は見たこと、聞いたことがない。見てみたい。私が小池氏にもっとも似ていると思う映画=パルプフィクションのキャラクターは、アルドリッチ「キッスで殺せ」=ミッキー・スピレーン「燃える接吻」のリリー・カーバーである。映画版と原作を併せて補完したリリー。彼女はこの世を憎んでいて滅ぼしたいと思っているのだ。
宇都宮氏の異様なまでの善意、誠意、山本太郎の演説上手、お祭り性、改革の気風も、悪く言えばフツーじゃない。彼らもまた怪物的で狂気を秘めていると思う。しかし、圧倒的に人々のことを考えている。頼るなら、賭けるならそっちのほうだろうと思う。この小池百合子伝で平成の黒い部分をどっぷり読んで気持ち悪くなったが、精神のバランスをとるために私が思い出し、反芻したのはしばらく前に読んだ宇都宮健児著「反貧困 半生の記」(09年 花伝社)である。これは、NHKのドキュメントになったり、宮部みゆきの「火車」の重要登場人物溝口弁護士のモデルとなった宇都宮健児氏の多重債務者救済や反貧困活動を明らかにしたもの。対照的な二冊だった。
映画監督入江悠氏はしばらく前に自身のツイッターで都知事選に寄せて、現代の貧困状況からアウトローとして生きている若者を描いた漫画「ギャングース」と自身によるその映画化を念頭に、「『ギャングース』の登場人物のような人間が救われる都政がいい」というような発言をした。また映画にも造詣の深い、築地市場移転反対の東京中央市場労組執行委員長中澤誠氏は「宇都宮健児氏の本質はハードボイルド」(これは宇都宮選対が出したPR映像への批判として出たことだったが)とツイッターでつぶやいたが、私もそれには膝を打つ思いだった。地味に見えてハードボイルドな人物と破滅を導く悪女の対決?そうはおさまらないし、善きことを志向する側が勝つのは難しい。多くの人間が悪女をつくったことのツケを払うのだ。