『おばけ』中尾広道
結城秀勇
[ cinema ]
木々の深い緑を背景に黄色い蚊柱が立つ、美しいファーストカット。続いて、映画は山の中の木や草を断片的に映していく。そこにひとりの男が現れ、なにかを見つけたように立ち止まり、やや上方を見上げる。そしておそらく彼の主観なのだろう次のカットで、緑の背景の前をきらきら光る円形のものがふわふわと移動していくのを観客は目にする。
それがこの作品のタイトルである「おばけ」、つまり写真等の撮影時に強い光がレンズ内に入ることで生じる光の像「ゴースト」を意味しているのだろうことは想像に難くない。難くはないのだが、そのきらきらは明らかに実体のある物体が光を反射してるように見えるし、あまりに人為性を感じさせる動きをしているし、まして男は別にカメラのレンズ越しにそれを見ていたのでもなかったから、それは「ゴースト」そのものというよりも、「ゴースト」のように見えるなにかなのだな、ととりあえず思っておくことにする。
この感じは、中尾の前作である『風船』(『おばけ』の劇中でも前作として話題に挙げられる)の冒頭と少し似ている。「風船」というタイトルの文字が消えた直後、画面には茶色い紙風船のようなほおずきが映し出されて、それを見た誰もが、「ああ、風船みたいだな」と思うであろうことは疑いようがない。でもいかにその中空の球形に近い物体が風船に似ていたとしても、やはりそれは風船ではないほおずきでしかなく、百歩譲って風船のようなほおずきくらいには言えるかもしれない、という感じで作品を見ていくと、ある瞬間、ほおずきは他ならぬほおずきのままで、しかし同時に紛れもなく風船になってしまうのである。ほおずきが形態の類似を通じて風船になってしまった後では、形の上ではまるで風船には似つきもしないものさえ、たとえばそう、たぬきでさえもが風船となる。同じことは『おばけ』における「おばけ」にも言えて、厳密には「ゴースト」なわけではないあのきらきらが「おばけ」になるなら、関西弁をしゃべる星々もまた「おばけ」であるのだし、つまり「おばけ」というのは宇宙人のようなものかもしれないし、死後のあの世に住まう者たちなのかもしれない(結局は回り回って字義通りの意味だ)。
『船』『風船』という、ベランダや机の上という身近で小さな空間が端正に作り込まれた小宇宙へと変質していく作品をつくってきた中尾監督のことだから、彼の最新作が『おばけ』のようなかたちをとったことは至極納得できることであるのと同時に、彼が『おばけ』の中でメタ的な自己言及を繰り返していくのには少なからず驚いた。過去作においても彼自身の身体は非常に重要な役割を果たしてきたし、むしろ映画内に登場する数少ない(ときには唯一の)人間の身体がこの世界の創作者たる彼自身のものであることは、たとえばたぬきの顔や幻想的なカーナビのセリフのように、映画内の世界の特徴的な手触りを示すのに役立っていた。しかしそこにいて当然だったはずの彼の身体が、「監督・中尾」としてそのキャラクター性を強めれば強めるほど、彼と彼のつくる世界との亀裂が明確に広がっていく。あの緻密で愛らしいがどこか歪な小宇宙がまったくの孤独な作業によって出来上がっていたこと、そしてそれゆえに今後も同じようにはつくり続けていくことができないことが語られると、あのかわいらしいビーズでできた星々も、「galaxy master」と名付けられた豆電球と木の板でできた銀河の彼方も、そこにあって当然のものではない、さまざまな諸条件の上でかろうじて成り立つはかないきらめきに過ぎないのだという気がして、胸がしめつけられる。
ただ、そうしたメタ的な製作背景が、全編通してほぼただひとりの主要登場人物である「監督・中尾」の口を通じてではなく、金属バットの声を持った星々によって語られることこそが重要なのかもしれない。結局彼はひとりではないのだし、これまでもほんとうにたったひとりだったわけではないのだ。それは音楽や題字のようなポスプロ作業を担当し続けてくれているクルーが存在しているという意味だけではなく、孤独な撮影の行程でさえも、彼がまったくのひとりだったわけではないという意味においてだ。つまり、彼はこれまでも、メダカやメダカのような船や、ほおずきや顕微鏡や石黒製麺のたぬきうどんや、「galaxy master」やビーズでできた星々といったものたちとともに作品をつくってきていたのは間違いないのだから。
この作品の最後に、監督が自らの幼い息子とともに映画をつくりはじめるのを目にするとき(そしてうまくいかない撮影に大人げなくブチぎれてものに当たるのを目にするとき)、彼がこれからも映画を作り続けていくのだろうことはもう疑いようがない。レンズ内で反射した光の幻影に過ぎないゴーストなのか、自分に似ていそうでまったく違う生き物である幼い息子か、あるいはメダカやほおずきや銀河の向こうの星々なのか、どんなかたちをとるのかはわからないが、そうした「おばけ」たちとともにこれからもなにかをつくりつづけていくのだろうということは。