『デリンジャーは死んだ』マルコ・フェレーリ
結城秀勇
[ cinema ]
ガスマスクのデザイナーであるミシェル・ピコリに向かって同僚が読み上げる論文?広告文?の(5月革命直後という時代の影響が露骨に滲み出た)文章の中に「もしあらゆる人々がマスクをつけることを強制される社会が到来したら」というフレーズがあることにギョッとせずにおられる者など、この2020年に生きる人間の中には誰ひとりいないことは間違いないのだが、しかし同僚が自信満々に延々と読み上げ続ける文章とガス実験室の吸排気や様々な機械のたてる唸りとにかき消されて、「おれはこんなものなんかつくりたくないんだ!」というピコリの叫び声がどうも彼自身の耳にすら届いていないようにすら見えるということの方が、個人的には身につまされる。人類総マスクの社会を予見することなんかより、またピコリがほとんどひとりきりで自宅で繰り広げる夜のソーシャルディスタンスライフなんかよりも、見えないマスクの中で反響し自分の耳にすら届かない心の叫びの方が、2020年現在の我々の生活の核心に触れている気がする。
ラジオ、テープレコーダー、テレビ、レコード、といった媒体が鳴らす音楽がそれぞれに結構な音量でピコリの静かな夜を彩っていくのだが、ふと隣の部屋でつけっぱなしにしていたテレビから轟音の船の汽笛がラジオの音楽を切り裂いて聞こえてきて、そのボリュームを調整しにピコリがわざわざ隣の部屋に行くときの、あの散漫な感じはなんなのだろう。各部屋で自律的に各プレーヤーがそれぞれの音楽を垂れ流し、その音量でその音響が鳴るように設定したのはピコリ自身に他ならないのに、彼はまるでどこか他人事のように自動的に再生される音響に眉を潜めたり小躍りしたりしながら、調理や食事、8mmホームムービー鑑賞などといった各部屋ごとのアクティビティに興じる。
このどこか他人事のような注意散漫こそが、この作品のもうひとりの主人公とも呼べそうなデリンジャーの死亡記事に包まれた拳銃とピコリとの関係の基盤にある。香辛料を探して戸棚をあさるうちに不意に転げ出て来る拳銃の包みに対するピコリのリアクション(の不在)はいったいなにを意味するのか。その拳銃は全然由来の不明な異物なのか、あるいは彼自身の過去や家族の歴史に起因する代物なのかが、まったく判別がつかない。なぜこんなものが!、や、なぜこんなところに!、といった驚きなど垣間見せることもなく、「あ、冷蔵庫に牛肉あったから煮込みつくろう」というのと同じテンションで、ピコリは調理や食事や食後の一服のかたわらで拳銃をメンテナンスしていく。それも専門的な知識と経験に基づく無意識でというよりも、レシピを見てちょっと凝った料理でも作ってみようかというアマチュア料理愛好者のような気楽さで、料理に使うボールやオリーブオイル、妻やメイドの爪やすりといったまったく非専門的な器具を用いて。ジャン=マルク・ラランヌが書く「ふたつの異なる演技スタイル」はこの映画ではかなり奇妙なかたちで組み合わされていて、注意散漫と集中とがほとんど不可分なかたちでミシェル・ピコリが演じる男性のキャラクターをつくりあげる。すべてに疲れ切った中年男性の倦怠が、そのままに子供か悪魔かといういたずらっぽさへと移り変わり、ヘビのおもちゃでいじったり、テープレコーダーで妻のイビキを録音したりする。
だから、この映画の結末が、遮蔽された空間内に満ちる轟音にかき消されたピコリの「おれはこんなものなんかつくりたくない!」という心の叫びを解放するものなのかは、実はよくわからない。それはピコリと拳銃、冷蔵庫の牛肉とレシピ、錆び付いた拳銃とオリーブオイル、マリネッティの絵と真っ赤に白のドットが入った拳銃といった映像の組み合わせの通りに(レシピ通りに?)ほぼ自動的に引き起こされた結果のようにも見える。タヒチへ向かう赤い空もまた、彼を閉じ込めていた音楽に満ちた小部屋と同じ、消費と広告の社会の産物の一側面であるはずなのだ(彼は自分が破壊し逃げてきた女たちと住む家の代わりに、謎めいた女船長の配下となることを選ぶ)。にもかかわらず、「目的地はどこ?」「タヒチだ」「まじで!最高じゃん!」みたいなノリのピコリの清々しさは、たとえタヒチに行ったところでウィルスから逃れえないことが身に染みた我々には、とてつもなく新鮮に映る。
アテネ・フランセ文化センター「中原昌也への白紙委任状」にて上映