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August 15, 2020

『鏡の中の亀裂』リチャード・フライシャー
結城秀勇

[ cinema ]

 オーソン・ウェルズ、ジュリエット・グレコ、ブレッドフォード・ディルマンの主要三役者がそれぞれ一人二役を演じ、土木現場で働く労働者階級と彼らの事件を弁護することになる上流階級とでほとんど相似形の三角関係が進行する物語である、......ということを説明するところから語り始めるほかないこの作品なのだが、見終わって一晩経ってみると、この映画のキモはそこじゃないんじゃないか、という気もしてくる。なぜなら、ドヤ顔で俗物を演じ分けるウェルズの労働者階級の方はふたつの三角関係を結びつける事件の発生とともに早々に死んでしまうし、権力者に成り代わろうとする野心家ディルマンの労働者階級の方も、収監されて以降はたまに「おれはやってない!彼女だ!彼女がやったんだ!」と叫ぶだけのデクノボーと化してしまうしで、奇抜な設定による役者たちの演技合戦という感じはほとんどしないからだ。
 おそらくこの仕掛けの真の重要性は残るジュリエット・グレコ演じるふたりにかけられているはずで、自分に似た誰かと(間接的に)遭遇することによってなにかが変化していくように見えるのはふたりの彼女だけなのだ(最終盤のウェルズをのぞけば)。たとえ階級や地位が変わったとしても、既得権益に執着する横暴な俗物のウェルズも、彼の支配から逃れて彼に取ってかわろうとするディルマンも、彼らの閉じられた小さな社会内部での権力闘争を行うに過ぎず、合わせ鏡のように自分たちによく似た誰かによって、いくつかの小さな社会を越えて全体を支配するルールそのものに気づいたりそれに働きかけようとしたりはしない。そのルールとはこの作品の序盤早々に誰かの言葉を借りて発せられる、「彼女が男だったら、愛人を持っていてもこんなに糾弾されないのにね」だ。この確固たる事実だけが、ふたつの社会を蝶番のようにつなぐ事件によって境界を越えた両方へ侵食していくのであり、そのことに多少なりとも意識的でいられるのはふたりのグレコだけなのだ。
 こんな風に書くと、無実のグレコが男性優位社会の犠牲者となる......といった感じもするが、まあそんなことはない。犠牲者になるのは間違いないのだが、同時に彼女(たち)がまったくの無罪でないことも同様に間違いなく、共謀殺人のグレコは登場するやいなや、ウェルズがやなやつっぷり発揮する以上の長さでディルマンと延々アイコンタクトしていたのだし、弁護士の愛人グレコは私は嘘をつくし権力も若い男も「時間の許す限り」どちらも手にしていたいと序盤では告げていたはずなのだ。だから彼女たちはまるっきりの潔白なんかではないのだが、しかし明らかに魔女狩りのように過分な罪を着せられてもいるのであって、おそらく彼女たちにとって最大の不幸は、なにが彼女たちに相応な罪でどこからが行き過ぎた罰なのかということが一切議論されないということなのだろう。
 自分たちの属する社会を再強化しつつその中での競争だけに専念する男たちと違って、女たちはそんなものを破壊してでも手に入れたいなにかへの欲望にはじめから自覚的だったはずなのだが、男性優位社会における不均衡を自分の出世のためだけに利用しようとする若手弁護士と、嫉妬と支配欲だけで彼に敵対する高名弁護士との争いに巻き込まれていく中で、ふたりのグレコは途中から極端に内省的になっていくように見える。あんなにも社会に依存しない自らの欲望を開けっぴろげに外面化していたはずのグレコたちが謎めいた沈黙や迷いの中に足を踏み入れるとき、彼女たちは自分の保身のためだけにそうしているのではなく、自分自身の欲望に忠実であるために、ひいては自分自身によく似た誰かの欲望をも解放するためにそう振る舞っているのではないかと思えてくる。
 鏡像のようなWグレコの共振によって、多少の地位や立場が入れ替わったくらいではどうにもならないくらい強固な男性優位社会に微かな亀裂と風穴が空く、となってもおかしくなかった物語は、怪物的としか言いようのないウェルズのもはや弁論とも呼べない嫉妬と劣等感とミソジニーの大爆発ですべてが無に帰し、結局は彼のような怪物を生み出した男性優位社会だけを無傷のまま生き延びさせる。この絶望的な結末は、なにが真実かなど知るよしもないこの映画においては、もしかするとWグレコの欲望のための闘いなど幻想に過ぎず、名声も人生もすべてを投げ打ってただ自分(を含んだ男性)の優位を保全する動きだけが実体をもった唯一のものだと告げているようで、ひどく打ちのめされた気分になる。


「中原昌也への白紙委任状」にて上映


  • 『鏡の中の亀裂』リチャード・フライシャー 澤田陽子