『眠る虫』金子由里奈
新谷和輝
[ cinema ]
幽霊の声はどこから出ているのか、という突拍子もない好奇心に駆られた主人公の芹佳那子は、バスで遭遇した謎の老婆の歌に導かれ、彼女を追ってやがて地図上にない街をさまよう......。というふうにこの映画の導入をまとめると、なんだかとても不思議でファンタジックな作品のように思える。しかし、『眠る虫』で描かれる世界は、ぼやけた夢のようなものではなくて、基本的には、くっきりとした視覚と聴覚に支えられている。スタンダードのサイズで切り取られたバスの車内や部屋のなかでは、そこに映る人や物の動きが的確に捉えられている。でも厳格な構図でバシッと決めるのではなくて、カメラの動きには人の感覚にもとづいたような柔軟さもあって、観客はそこに映るもの、または映らないものをリラックスして自由に見てとることもできる。
音声もこの映画の世界を構成するうえで重要だ。バスのシーンでは、乗客の話し声や、バスの走る音、車外の音、そして劇伴のTokiyo(And summer club)の音楽など、様々な音声が交差するが、どれかひとつの音が他の音を吹き飛ばしてしまうようなことはなくて、それぞれの音が独立しながら重なり合って聞こえてくる。だから、聴こうと思えばいろいろな音を同時に聴くことができる。
ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』を捻じ曲げたような映画とも言えそうだが、金子監督の関心があるのは、人間の間にある心情やドラマよりも、人間以外にも様々なものが存在する世界そのものなのだろうということはなんとなくわかる。私は監督の過去作である『食べる虫』や『散歩する植物』を見たことがあるけれど、そこに出てくるのは生きるのに退屈した人や、人間をやめて植物になろうとする人たちだった。この映画でも石や植物が度々画面を賑わせ、人間へのどこか突き放したような冷めた目線もあるので、監督の興味はあまり変わっていないと思う。
しかし、この映画を見ていて思ったのは、人間でいることがあきらめられてないということだった。この映画はカメラの機械的な客観性にたよってリアルな自然を記録したり、逆に人間の主観のみにたよって世界を解釈したりしないで、そのはざまに居る。事物そのものに関心があるというより、人間とそれらの事物が結ぶ関係のほうに興味が向いていると思うのだ。なぜ人はその石を拾ったり運んだりするのか。なぜ人はその場所を選んでそこで生きようとするのか。そうした人と世界の偶然でもあり必然でもある関係性が、この映画の人工的な光や風の効果によって、人間の意識のもとで捉え返されていく。
そうこうしているうちに物語はだんだん混沌とした様相を呈してくる。いつのまにかできあがっている家族のような集まりは、誰がどういう関係なのかよく分からないし、死んでいるのか生きているのか、虫なのか人間なのかも曖昧になってくる。そうしてすべての存在は脆く、偶発的に交換可能でありうるとしながらも、とある交わりにおいて発生した無二の記憶は、この映画において人間の意識によって引き継がれていく。私たちの記憶は誰かひとりだけのものではなく、他人や場所や物といったあらゆる存在によって形づくられているが、その痕跡を人は辿ることができるし、かつての記憶に新たな記憶を付け加えたり、増幅させたりもできるのだと、人間アンプとなり人間映写機となってそれぞれおもいおもいにイメージと声を投じていくこの映画の人々を見て思った。カメラとマイクをもって、人間が自身もその一部であるハイブリッドな世界を捉えていくことへの原初的な喜びがここにはあるような気がして感動した。こうして不純な心地よさで人間と世界を媒介してくれるこの映画は、私たちの中や外に眠っているあらゆる可能性へ、いまはもうないもの、これからあるものへと、目と耳を向かせてくれるはずだ。