『スパイの妻<劇場版>』 黒沢清監督 インタヴュー
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いよいよ劇場公開を迎える黒沢清監督による初の8K作品『スパイの妻』(2020年度ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞作)は、太平洋戦争前夜の神戸を舞台とした氏にとって初めての時代物の作品である。つねに我々の同時代に潜んでいる亀裂を、ごく当たり前の風景に見出し続けてきた黒沢清監督は、世界史を揺るがす激動が足音を潜めて迫り来る時代への孤独な闘争を織りなすひと組の夫婦に、いかなる視座をもって、いかなる光とともに対峙したのか。(※本インタビューの全文は近日発売のNOBODY issue 48に掲載予定)
――本作『スパイの妻』の成り立ちからお伺いします。この企画は濱口竜介さん、野原位さんが書かれた脚本がほぼ骨子になっているということですが、実際にはどのような経緯があったのでしょうか。
黒沢清(以下、黒沢) 『ハッピーアワー』(2015)で神戸を舞台に映画を撮った濱口と、共同脚本の野原は、東京藝大で僕が教えていた学生でもあるのですが、ふたりにはなぜか神戸のいろんなコネクションがあり、プロデューサー的な能力があるんですね。最初は彼らから正式な仕事の依頼というよりも、どちらかといえば自主映画的なノリで「神戸を舞台に映画を撮らないか」と話があった。そのときは「いいけど、何撮るの? なにか話を作ってよ」と適当に応対して、実現性は低いなとタカをくくっていたんです。そうしたら突如として、セリフも書き込まれた相当に長いこの映画のプロットを渡された。読んでみたら、まあ面白い。ですが、「これ本当にやれるの?」と思わざるを得ませんでした。まず予算的にこんなものが可能なのか。時代ものはやっぱりお金がかかりますから、いくらなんでも難しいんじゃないかと思ったんです。それが、あれよあれよという間にどこからかNHKや本物のプロデューサーを見つけてきて、実現する運びになりました。
――1940年代という舞台設定ですが、黒沢監督のフィルモグラフィでは初めての時代ものの作品になります。
黒沢 チャンスがあればやりたいと前から思っていて、いくつか企画が動いたこともあるんですが、実現には至りませんでした。濱口と野原には以前雑談でそんなことをしゃべったことがあったのかもしれませんが、何と今回彼らが書いてきたのがこの時代だったんです。
――以前、海外のアンケートで黒沢監督がいまやってみたい企画とは何かという問いに対して、日本の歴史における様々な出来事の5分間を並べることで1本の映画を撮られたいとお答えになったことがありますね。今回の企画ともつながるご関心ではないかと思います。
黒沢 実際にこんなことがありましたというエピソードをそれぞれ5分ワンカットで次々と繋げただけの作品をやってみたいと、ほとんど妄想のようにそんなことを書いたことがあったかもしれません。そういうアバンギャルドな映画も撮ってみたいんですが、今回の作品はメロドラマでありサスペンスであることが主軸ですから、僕の妄想や欲望はなるべく抑えてやらなければと肝に銘じていましたね。
この作品はひと組の夫婦の物語ですが、本来愛し合っている男女が様々なことで引き裂かれつつ、お互いがお互いを騙して策略にはめようとする展開というのは、僕には到底思いつかないものでした。そしてこの時代を背景にこの種のサスペンスやメロドラマみたいなものを扱った日本の作品をほとんど知らない。欧米ではきっとスタンダードな題材だとは思うのですが、しかしよく日本を舞台にしてこれを思いついたなと。
いろいろな秘密を知ってしまった優作(高橋一生)が妻の聡子(蒼井優)に嘘をついて隠し事をする、それに対抗するかのように妻は夫と別の女性との関係を疑い、ついには妻の方が夫を出し抜いてアメリカに一緒に行こうとするという、無茶苦茶と言えば無茶苦茶な、妻の矛盾に満ちた非常に大胆な行動に惹かれました。こんな女性って日本だと増村保造の映画に出てくる若尾文子ぐらいしか思いつかないですね。欧米でもちょっと見当りません。それこそが濱口・野原の凄い発明だったわけです。
――自分の気持ちをこれほどに言葉にする女性というのは、確かに日本映画ではなかなか目にすることの多くない人物像かもしれません。本作は聡子に限らず、登場人物一人ひとりの台詞の量が非常に多いですね。
黒沢 『ハッピーアワー』(2015)のふたりが書いたら絶対台詞は多くなるよなとは思ったんですけど、やっぱりこんなに多いの?っていう感じでしたね。最初の脚本をそのまま撮ったら3時間ぐらいにはなったんじゃないでしょうか。できる限りは活かしつつ、削れるところをだいぶ削ってなんとか2時間弱のものに落とし込みました。
――さらに監督にとっての初の試みとして8Kによる撮影があります。そのことがこの作品の作り方に与えた影響はありましたか。
黒沢 撮影そのものは、カメラも普通の大きさだし、さほど特殊なやり方でやったわけではありません。最後の仕上げには想像を絶する手間がかかったんですが。ただ、今回の映画では撮影、照明、録音の技術スタッフが、皆NHKでドラマをつくられている方々で、まさに直前まで『いだてん』(2019)をやられていたグループなんです。ドラマは慣れておられるんですが映画は初めてで、逆に僕はテレビドラマをやったことがあまりなく、システムがまったく違う。最初はお互いすり合わせるようなかたちで進んでいたんですが、こちらとしては100パーセント合わせてくれなくてもいいので、やりたいようにやってくれとも言っていて、その辺も含めて最終的には実にうまくいったのですが、いったいどういう映像が撮られているのかが掴めずに不安は不安でした。僕も近年はモニターをなるべく見るようにしているんですが、カメラの近くには非常に小さなものがあるだけですから、そこではなんとなくの構図を見ているだけです。これが後に超高密度の8Kになるわけですが、まったく想像できない。出来上がるまで誰にもわからないんですよ。
――昔のフィルム撮影のようなお話ですね。
黒沢 それに近いかもしれません。たんに8Kで撮影するだけの仕上がりはわかるんですよ。ものすごく濃密で鮮やかで、その物がまさにそこにあるように映っている。つまりものすごく生々しい映像になる。スポーツ中継などであればそれでよいのですが、しかし同じようにそのままお芝居を撮ると、たとえば蒼井優さんがただ脚本に書かれた科白を読んでいるようにしか見えなくなる。つまりフィクション性がぜんぜんなくなってしまう。そのことをNHKのスタッフもわかっていたので、当初は白黒で仕上げようとか、フィルムみたいなルックにするというアイデアも出ました。でも、だったら8Kで撮る意味は何もないわけですよね。なので僕からは「8Kの肌理の細かさとか鮮やかさは残しつつ、その生々しさだけは消したい。矛盾していますがそれでお願いします」と伝えました。NHKのスタッフグループも「その通りです。頑張ってみます。どうなるかはわかりませんが、そういうものを目指します」と言ってくれました。撮影開始時は誰もどうなるかはわからないままやっていたということです。
―――残念ながら我々も8K版を見る機会は得られていないのですが、ご覧になられていがかでしたか。
黒沢 これはちょっとぜひ見ていただきたいというくらいに、なかなかすごいものになりましたね。動く絵画とでも言うんでしょうか、本当にきめ細かく鮮やかでありつつ、そこに気持ちのいいフィクション性がちゃんとある。
今回のNHKのスタッフはもちろん8Kということもあってすごく気合が入っていて、熱心に撮影前からいろいろと勉強されていた。『いだてん』の合間に、僕のこれまでの作品をみんなで研究したそうです。「黒沢さん、こういうのお好きですよね?」なんて言われたり。ですからこの映画は僕の好みがこれまで以上に強烈に出ている作品になっているかもしれません。
取材・構成:田中竜輔、渡辺進也
※当インタビューの全文は近日発売のNOBODY issue 48に掲載予定
黒沢清(くろさわ・きよし)
1955年兵庫県生まれ。映画監督。東京藝術大学大学院映像研究科教授。立教大学在学中より8ミリ映画の自主制作を手がけ、1983年商業映画デビュー。97年『CURE キュア』が国内外で大きな注目を集める。2001年には『回路』がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門で国際批評家連名賞を受賞、2008年には『トウキョウソナタ』が同部門で審査員賞を、2015年には『岸辺の旅』が同部門で監督賞を受賞している。国内では2018年に『散歩する侵略者』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。最新作『スパイの妻』は2020年ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞(監督賞)に輝いた。
『スパイの妻<劇場版>』
2020/日本/115分/1:1.85 映倫G
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介 野原位 黒沢清
音楽:長岡亮介
出演:蒼井優 高橋一生 東出昌大 坂東龍汰 恒松祐里 笹野高史
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
10月16日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー!