『空に住む』青山真治
隈元博樹
[ cinema ]
高層マンションのエントランスを捉えた監視カメラの映像に、小早川直実(多部未華子)が映り込む。彼女が背負う特殊な形をしたリュックの中には、ハルという飼い猫も潜んでいるようだ。両親と死別したことをきっかけに、直実は叔父夫婦の計らいでこのマンションに越してきたことがのちにわかるのだが、唐突とも言える冒頭のショットによって『空に住む』は始まる。「空に住む」かのごとく39階の広々とした新居はどこか単身+ペットにしては身に余るほどの空間であり、窓外は一面に広がる東京の景色。高層という地面から浮遊したような場所であることからも、直実やハルと同じようにして身の置きどころを掴めないまま、私たちはここから動き始める物語を見つめていくことになる。
そうした住まいがある一方、直実は勤務先の出版社「書肆狐林」との往来を繰り返す。東急線の多摩川を越えた先にある彼女の職場は、リノベーションされた日本家屋の佇まいであり、編集者たちのデスクはいずれも畳の上に座椅子を囲んだレイアウトを呈している。出版社には自習室と呼ばれる離れも設えられていたりと、まるで直実が住む高層マンションとの対比を際立たせるようなつくりだ。また直実は両親の供養を終えて職場に復帰したばかりであるものの、空いたブランクを必死に埋めるかのようにして仕事に打ち込もうとする。編集長の柏木(髙橋洋)や後輩編集者の愛子(岸井ゆきの)を交え、かつて直実が編集担当だった吉田(大森南朋)による新作小説の掲載を、連載か書き下ろしにするのかといった話し合いの場面。そこで元担当の直実から節々に発せられる編集者としての「責任」や「矜恃」といった言葉の強度は、自身の仕事と真摯に向き合うことを進んで選ぶひとりの人間としての姿を浮き彫りにさせている。
ふたつの場所から見えてくる直実の状況は、彼女と同じマンションに住む人気俳優の時戸森則(岩田剛典)が取材中の直実に対し「地に足を付けたいんだ」と語るように、このフィルムの拠り所であり、言わば通奏低音となっていく。ただし、地に足を付けることとは、高層マンションや平屋の職場といった対象から導かれる空間性、あるいは社会人としての自立を促すだけに留まらない。それはスクリーンに映る目の前の人物が、どこにいようとも、何をしようとも、自らが置かれた状況やその場所で生きていくことを選んだ以上、そこからいかにして現実との折り合いを付けながら物事を始めていくのかということでもあるからだ。直実の身に訪れるひとつの恋愛、別れ、人間関係といった変化や出来事は、自らが抱く責任や矜恃を全うするためだけにあるのではない。時に自身の弱さを反芻し、目の前の現実と新たに向き合うための哲学を導き、その結果を与えるためにある。そして地に足を付けたいと語る時戸の存在、ないしは彼が持つ言葉や行為に反応するかのようにして、彼女はたしかなる始まりの瞬きを得ていくことになるのだ。
単に過去の喪失や悔恨を背負うでもなく、ましてや逃れようとするわけでもない。その先へ進むために何かを始め、今というこの瞬間を肯定するということ。だからこそ『空に住む』は冒頭の監視カメラのように紛うことなく彼女やハルを捉え、マンションへと越してくるまでのバックグラウンドを十全に見せることはない。それは青山真治がインタヴュー(「NOBODY issue48」に掲載予定)で語っているように、「(ここから)ぱっと始まるよ」といった始まりの瞬きを物語の最後まで持続させるためでもあるからだ。しかし、直実による始まりの瞬きとは、けっして彼女だけに訪れるわけではなく、このフィルムを生きる他の登場人物たちにも等しく訪れる。時戸が直実に語りかけた取材中の言葉たちは、やがてある人の手によって一冊の本となる。愛子のお腹から産まれてきた子どもは、その父親が誰であろうともその子の母親は愛子であることに変わりない。このフィルムは、それぞれが選んだ現実と結果を受け入れた始まりの瞬きを瑞々しく掬い取ろうとするのだ。
つまりタイトルの『空に住む』とは、字義通り空に近い高層マンションに住まうことだけではない。訪れる現実や選んだ地場を受け止め、自らの物語をそこから着実に紡ぎ始めることなのだ。ひとつの仕事を終えたあとに背伸びをする直実の姿、あるいはここに生きる人物たちのこれからを目にしたとき、それは同時に私たちのこれからなのかもしれない。地べたで生きていれば平行線として交わらない私たちも、宇宙のずっと先に行けばいつかは交わるらしいと、葬儀屋の永瀬正敏は海辺の夜空を見ながら語る。たとえありえないとしても、その宇宙のずっと先に始まりの瞬きがあるのならば、その地に足を付ける日を信じて生きていきたいと、強く思ったのだった。
「NOBODY issue48」(11月上旬刊行予定)にて、監督インタヴュー&論考を掲載予定