東京国際映画祭&フィルメックス日記2020
森本光一郎
[ cinema ]
10/31
今年は東京国際映画祭とフィルメックスが同時開催ということで、外出する機会も減って喜んでいたのだが、蓋を開けてみると本当に文字通りの同時開催だったということを最初に言っておくべきだろう。今年はコロナの関係であまり出歩きたくなかったので、三大映画祭のコンペに選出された作品を出来るだけ観ることに設定した。その結果、昨年の釜山映画祭のように常に移動しているようなスケジュールにはならなかったのだが、今度は逆に待つ場所の少ない中で空き時間を潰す必要に迫られることとなった。
ということで、一本目に選んだのはクロエ・ジャオ『ノマドランド』。今年のヴェネツィア映画祭やトロント映画祭で話題になった作品で、東京国際映画祭の目玉でもあり、当然期待値も高い。彼女の作品は『Songs My Brothers Taught Me』しか観ていない状態だったが、撮影監督が同じ人ということもあってテレンス・マリックのようなスピリチュアル系の映像自体は似通っているように思えた。また、"どこにもいたくないから放浪する"というテーマも共通していて、どこかテレンス・マリック『天国の日々』を感じる作品になっていた。そこまでは良いのだが、雄大な自然や楽しい仲間たちというノマド生活の綺麗な面だけを綺麗な映像で語っているようで、極端な美化に辟易してしまった。
二本目は、ブランドン・クローネンバーグ『ポゼッサー』。既に鑑賞していた友人たちの評判は散々なものだったが、個人的にはそこまで悪いとは思わず。他人の中に入り込んだことで自分のアイデンティティが揺らいでいくという話は哲学的なSFとして興味深い題材だが、一つの肉体に二人の人間の意識という状態を表現するグロテスクな映像がいまいちパッとせず、作品全体に鈍重な印象を与えているように思える。真面目に父親の映画を再現したという感じで、別に無理して父親の影を追わなくてもいいのにと思った。二世監督も大変なんだな。
想像以上に『ノマドランド』のダメージがあったので、この日はこれにて帰宅。
11/1
午後まで研究室にいたので夜から初フィルメックス。1年ぶりに有楽町に来たので10分ほど迷子になってウロウロしていた。
ということで三本目、アモス・ギタイ『ハイファの夜』。何本か観たが全く好きになれない稀有な監督の一人だが、ヴェネツィア映画祭のコンペに選出された上に、絶対一般公開されないので上映される度にフィルメックスで観ている気がする。本作品は前作『エルサレムの路面電車』に続く大都市三部作の二本目らしく、イスラエル第二の都市で監督の故郷ハイファを舞台にしている。キュレーターのライラを中心に、バーに集まった面々を描いた群像劇なのだが、アイラ・サックス『ポルトガル、夏の終わり』のように二人の会話を通じて複雑な人間関係をモザイク状に形成していく手法を採用した結果、鈍重な作りになっていた。しかも、最も重要な要素である会話が表面的で、話者の関係性以上の情報が皆無。素直に帰って寝れば良かったと後悔したが、これは苦手な監督の作品なので想像の範疇。期待は裏切られていない。
11/2
四本目、ホン・サンス『逃げた女』。彼の作品を観るのはこれが二本目(一本目は『それから』)で、今回もキム・ミニが登場する。他愛もない会話に迷惑な男が乱入し、それを三回繰り返すというだけのシンプルな構造で、大きな黒猫のようなキム・ミニがそれらの間を繋いでいる。『それから』ではキム・ミニを見る"ホン・サンス"が画面内にもカメラの裏側にも登場していたが、今作では後者のみなので妙に心地が良い。対人の距離感を間違えたような急で雑なズームも可愛らしく、会場の他の観客たちと共に笑う空間が楽しい。配信だとこれが出来ない、映画館に来て良かった。
五本目、ノラ・マルティロシャン『風が吹けば』。ナゴルノ・カラバフ唯一の空港を査定しに行くフランス人技師の話で、そのタイムリーさに驚く。主人公は大好きなクレール・ドゥニ『美しき仕事』のクレゴワール・コラン!何も調べずに観に行くと、こういう唐突の再会があって良い。しかし、すっかりイケオジになった彼よりも印象的なのが、空港に無断侵入して水を盗っていく少年の存在だろう。空港の水を売り歩く姿は、空港の恩恵が人々に行き渡ることのメタファーでもあり、彼が未来を担う存在であることはラストシーンからも明示されている。それに対して、大人たちはコランを情で煙に巻こうとしており、彼らも空港が開けないことは薄々理解はしている目をしていて悲しくなった。
11/3
この日は遅刻せず朝から六本目、カオテール・ベン・ハニア『皮膚を売った男』。"自由が欲しい!"と叫んだせいで故国シリアを追われた青年が、現代芸術の"商品"となることで越境するアートパフォーマンスに参加する話。シリアに関する問題と現代アートに関する問題が互いを食い合っている状況に、ロマンスをぶち込んで余計に混沌とした構成になっていて、結局どれも十分に解決できないまま挑発しただけで終わってしまった。ラストシーンで無批判にテロ組織を出してきて、それをシリアでも現代アートでもなく、ロマンスとして終結させてしまうあたり、私は全く支持できない。
七本目、マグヌス・フォン・ホーン『スウェット』。昨年の釜山映画祭で観たメラニー・シャルボノー『Fabulous』に似たSNSの人気者社会批評映画であり、インフルエンサーの虚無的な生活風景はどこか似ている。ただ、SNSの人気者の表面を我々の想像に任せすぎで、その割に裏面の描写も薄っぺらいので、無難な着地点も微妙。彼女のストーカーも同僚も、フィットネス・インストラクターの彼女を性的に消費しようとしているという挿話があったのだが、その挿話すら"孤独"というメインテーマのために消費してしまうのが失礼すぎて理解できなかった。
11/4
八本目、モハマド・ラスロフ『悪は存在せず』。今年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞した、イランにおける死刑を巡る四つの短編をまとめた作品。日常生活の延長線上に死刑を置いた一本目の出来が凄すぎて、若干の既視感があった残りの挿話が霞んでしまったように思える。特に二本目は死刑担当になった青年兵士が刑務所の控室から逃げ出すという話なのだが、脱走兵の近親者が処刑されるという現実が完全に無視されていて、やってやったぜ!と締めくくるのには大きな違和感が残る。私がマイケル・サンデルのハーバード白熱教室のような思考実験を想定していたのが間違いだったと思い知らされた。
九本目、オムニバス『七人楽隊』。七人の監督が香港を描いた短編をまとめた作品。描かれた年代順に並んでいるので、前半ほどノスタルジックな目線で描かれている。特に印象的だったのが、変わってしまった香港の街並みを歩みながら、変化を受け入れる過程を、成長した息子に重ね合わせたリンゴ・ラムのパートだ。彼の遺作となるのだが、主人公となる父親が亡くなるという現実とのリンクが最も強烈。また、パソコン黎明期/SARS流行期(奇しくもコロナとの繋がり)/本土連絡鉄道バブルの三つに時代を背景に、発展していく食堂であぶく銭を掴もうと躍起になる三人の男女を描いたジョニー・トーのパートも、実際に生きてきた人間しか気が付かないような細かい部分の変化が描かれていて分かりやすかった。
11/9
九本目、アンドレイ・コンチャロフスキー『親愛なる同志たちへ』。ノボチェルカッスクの民衆暴動を背景に、地元の党幹部が巻き込まれた娘を探して右往左往する作品。市政→地区→中央と問題が大きくなる中で、地元で偉い人だった主人公が群衆の中に埋没していく様は滑稽さすらある。弾圧されたキリスト教の登場、虐殺されたコサックの人々の記憶などに触れていく前半は興味深いのだが、娘を探し始めるとありえないところから善意の塊のような協力者が現れて現実感を失っていく。鈍重な編集も相まって、急速に失速していくのが非常に勿体ない。鑑賞した日には既にバイデンの当確が決定しており、希望的なラストにはより希望が感じられるが、その裏にKGBが絡んでいる不穏さも忘れずに指摘したい。実に上手いラストだ。
この日は実験装置が壊れたという知らせを受けて、残りの予定を泣く泣くキャンセルして撤退。惜しくも観られなかった作品が配信や劇場公開などされることを願っている。
12/5
フィルメックスの配信がクロームに対応していないというありえない状況を前にやる気を失っていたのだが、これだけは観なくては!とMacユーザーの友人に頼み込んで十本目、ツァイ・ミンリャン『日子』。一度は引退を発表していた監督も、リー・カンションの病気を前に映画製作に復帰したらしい。意図的に字幕を排し、音だけを聴かせるように気を配られた空間を見せつけられたおかげで、こちらもなぜか息を止めてまで画面に見入ってしまった。集中力のない私は配信だとすぐに停止ボタンを押してしまうので、劇場で観たときの没入感とはほぼ遠い楽しみ方をしてしまったが、それでも尚魅力的な作品だったと言えるだろう。