『二重のまち/交代地の歌を編む』小森はるか+瀬尾夏美
結城秀勇
[ cinema ]
山形国際ドキュメンタリー映画祭2019でこの作品を初めて見たときにもっとも強く印象に残ったことは、一世代後を想定した物語をいとも軽々と追い越し覆い尽くす現実のーー資本主義経済の、と言うべきかーー恐るべき速度と、それに対するささやかだがしなやかな抗いだった(詳細はこちら)。映画祭の公式ガイドブックである「スプートニク」では、富田克也がこの作品と小森の『空に聞く』の二作品について文章を書いていて、そこで彼は被災後の風景を「異国情緒」になぞらえている(全文はこちらから)。その表現には、嵩上げされた土地の上にできた新しいまちで、もう日常的には震災の話をしなくなった人々から新しい語りを生み出すために、「旅人」(『二重のまち/交代地の歌を編む』で、まちの人の話を聞き、「二重のまち」というテキストを朗読する4人の人物はそう呼ばれる)を招き入れるという小森+瀬尾の戦略と通じるものがある。
「旅人」はまちの人の話を聞き、それを自分の言葉で語り直し、そして話を聞いた人々によく似た人が登場する物語を朗読する。こう書けば(そしてこれがワークショップというかたちをとっていたということを考えれば)、その3つの段階にはなにか線的な発展があり、ある目的のためにそうしたプロセスがあるように見える。しかし、前回この作品を見た時から一年半ばかりを経て見直した印象はそれとはまるで違った。映画の冒頭、バスに揺られる古田春花の姿に、自分と陸前高田との関係を語る彼女の声が被さってくる時、もうすでに"語り"ははじまっているのだ、と感じた。
"語り"の中には、かつて起こった災害について人から伝え聞いたものがあり、その災害から20年後のこのまちを舞台とした物語がある。そしてその間に、純粋な「伝達」としてはノイズでしかないような、媒介する語り手たちの存在によってのみ生み出される"語り"もまた存在する。その三者は、先に書いたような線的な発展の関係にはないし、映画もそのように見せそうとはしない。たとえば、テキストの朗読の前に付される、「これはこういう物語です」という説明は、もはやテキスト本体の補助的な解説などではなく、それ自体がなにか別のレイヤーとしての"語り"をなす。そしてその3つの"語り"が常にお互いにオーバーラップし合う。
そうしたつくりの中で、観客はしばしば迷う。これはさっき映像に出てきた人の話なのかそうではないのか。この物語はさっき話されていた人を描いたものなのかそうではないのか。いま話されているのは語り手主体から見たことなのか、客体同士の関係性のことなのか。そうした迷い自体が心地よい。上と下からなるこの二重のまちの中で道に迷うことこそが、2011年3月と2031年3月のちょうど中間にいる我々観客にはもっともふさわしいのかもしれない。
その時、映画の中の4人だけではなく観客もまた旅人になるのだし、そうすれば、まるで迷った道の端で思わずきれいな花を見つけるように、この作品内の美しいディテールを見つけることは難しくはない。たとえば、「なんかこう、下の方に......」という時の坂井遥香の、まるでタイ舞踊のような指先の動きとか。
2/27よりポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールほか全国順次公開