《第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》『涙の塩』フィリップ・ガレル
池田百花
[ cinema ]
街がモノクロで映し出され、地方から進学のためにやってきた男性が、通りの向こうでバスを待つ若い女性に声をかける、ひとつの美しい「愛の誕生」から始まる物語。しかしこの青年リュックは、ここでジェミラという女性を残して田舎に戻ると、幼なじみの恋人ジュヌヴィエーヴと再会し、彼にまっすぐな愛情を向けるジェミラを反故にして、ジュヌヴィエーヴを選ぶことになる。しかしそれもつかのま、自分との間にできた子供を妊娠していることをジュヌヴィエーヴから告げられると、彼は彼女のもとからも去っていってしまう。こうしてリュックは、徐々に明らかになっていく自分の卑劣さを自覚し、そのことで自分自身を責めながらも、自ら愛を失っていく。
リュックが持つ卑劣さは、確かに責められるべきものではあるが、愛することをめぐる彼自身の戸惑いが明かされる場面を境に、彼の性格に当てられる焦点がずらされていくように感じられる。リュックがふたりの女性たちと別れた後、街で見かけた見知らぬ女性の後をつけるシーンがあるのだが、そこで突如入るボイス・オーバーによって、彼には、これまでの恋人たちとの間には愛が存在していたのか、自分には愛することができるのかどうかわからないということが語られる。このシーンから、女性たちに対して不貞を繰り返すドン・ファン的な側面はもとより、「わからなさ」に翻弄される若者としてのリュックの姿が浮かび上がってくるようだ。
そしてこの「わからなさ」は、リュックが常に愛する対象を取り逃してしまうことともつながっているのではないか。彼はいつも物事が起こっている時にはその実態を捉えることができず、後になってから、それが自分にとってどういう意味を持っていたのか理解していく。リュックが自分のせいで失った女性たちに対する気持ちに気づいて引き戻そうとする時、ジェミラはすでに別の男性との子供を妊娠していたり、ジュヌヴィエーヴも彼との子供を自らの意思で堕していたりと、彼が愛と呼びえたかもしれないものは消え去ってしまっている。ジェミラの場合、リュックとの関係が始まった頃、友達とカフェの窓際の席で彼のことを話しているシーンからすでに、彼を愛する自分の気持ちを言葉として表現していて、いつも後からでないと気づくことができない彼とは対照的だった。
こうしてリュックが愛する対象をいつも喪失してしまうということが最も厳しく突きつけられるのは、何よりも映画の最後に起こる父親の死だろう。ジェミラやジュヌヴィエーヴとの関係が終わった後、ベツィーという女性と付き合うことになるリュックは、彼女の奔放さに振り回されるあまり、父の死についてもやはり後から気づくことしかできない。父との愛は、リュックの女性たちに対する愛とは違って無条件であると言える。そもそもリュックが地方から出てパリを訪れることになるのも、職人である父に憧れて、パリにある工芸大学に入るためだったし、リュックは父のアトリエに手伝いに行って一緒に時間を過ごしたり、父のほうもたびたび息子のもとを訪ね、彼の女性たちとの関係についても気にかけていたりするほど、ふたりは親子としてお互いに強い愛情で結ばれていた。だからここには、一方にリュックと女性たちとの不確かな愛があり、他方に父との無条件な愛があって、この二種類の愛を取り巻くそれぞれの時間が対置されながら並行して進んでいくように見える。
ラストシーンで父の死を知ったリュックが打ちひしがれ、ようやく愛することができる存在だと思っていたベツィーにも背を向けて扉の向こうに行ってしまうと、またボイス・オーバーが入って、リュックは、この世界にはもう父がいないということが「わかる」ということが語られる。この映画の中で初めて、彼にとって「わかる」ということが訪れる瞬間が、父の死によってもたらされる。愛と死、わからないということとわかるということ、それまで問われていたことすべてが宙吊りにされて圧倒的な強度とともに恐ろしく迫ってくるこの最後の場面を前にして、再びわからなさの中に投げ出されてしまったような気がした。しかし愛することや生きることがある種の不可能性の上にしか成り立たないものであるとしても、リュックがジェミラに声をかけた日にバスの中で交わされたあの視線の往還や、ベツィーと出会った日の夜のダンスシーン、そして父のアトリエで一緒に過ごした時間......そういう確かに存在した瞬間の美しさこそが、きっと、取りこぼしてしまった時間を掬い上げ、わからない愛や生を、何か信じられるものに近づけてくれるのではないか。
第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって 3/26、27、4/30にも上映あり
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