《第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》『ジャック・リヴェット、夜警』クレール・ドゥニ
池田百花
[ cinema ]
画面の中に物静かに佇むジャック・リヴェットと、その隣で彼に饒舌に語りかけるセルジュ・ダネー、そしてクレール・ドゥニが彼らに向けてカメラを構える。昼の部と夜の部からなるこのドキュメンタリーには、パリの街を回りながら、リヴェットとダネーが映画を巡って会話を重ねる様子が映し出されている。
ふたりの間で交わされる会話の応酬に終始魅了される2時間の中でも特に忘れがたいのは、夜の部の冒頭でリヴェットが、『パリはわれらのもの』(Paris nous appartient, 1961)という自身の作品について話す場面だ。そこで彼の言葉は、図らずもこの映画のタイトルと響き合いながら、自分が作る作品はどれも自分の人生には属しておらず(n'appartient)、それどころか、作品の中にあるものが自分の人生の中にはないと断言する。多くの人たちが彼に対して持ち、映画の中でダネーも強調している孤高な作家としてのリヴェットというイメージが顕著に表れているシーンのひとつだ。しかしここで、このカットにおける彼の陰にはダネーがいて、彼らを撮るカメラの後ろにはドゥニがいることに気づかされる。すると、夜の闇の中に離れて立つ3人の間にひそかな共犯関係が結ばれているように感じられ、それを暗闇の中でスクリーンのこちら側から見つめる観客にもまた、彼らの新たな「共犯者」となりえる悦びが許されるような、束の間の幸福な時間を目の前にした気がした。
また、控えめなリヴェットの横で、時にその話を遮ってしまうほど話すのが好きなダネーの存在感にも驚かされる。リヴェットをモデルにしたドキュメンタリーという体裁がとられつつも、ダネーについての映画でもあると言ってよさそうなほど、前者の言葉は常に、それを受け取る後者の思考や人生に接続されていくのだ。中でも、リヴェットが映画を撮る動機には好奇心があり、そこに美徳が認められるということに対してダネーが共感を示して熱く語る場面は、彼らの実存に関わる問題の核心に迫っている場面のひとつではないか。なぜならふたりにとっては、美徳として認められる好奇心こそが、驚きや未知なるものに出会って感動し、無垢に立ち戻ること、そして人生を続けていくことを可能にしてくれるからだ。さらにその手段を与えてくれるのが映画であると彼らが信じていることも一層、両者をひそかな「共犯者」として結びつけるだろう。
最後に、この映画が撮られた後、ダネーが『不屈の精神』という著書で示したシネフィルの定義の中にこの主題が引き継がれていることにも触れておきたい。映画というものが、そして映画について語るということが、私たちを「知」へと接続しながら未知なるものへと差し向ける詩的な手段となること、さらにはおそらくそのことが、映画を信じる人々の人生を支えうるということ。ここに書かれたダネーの言葉がそれを饒舌に語ってくれる。
識別できない映像が網膜に刻まれ、未知の出来事が宿命的に起こり、偶然発語された一語が自分にとって不可能な知の秘密の暗号になる。「見たことも捉えられたこともない」こうした瞬間は、映画愛好者にとって初期の情景であり、それが自分だけに関わるのに自分がそこにはいない情景である。(『不屈の精神』)
《第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》 にて上映
【特集関連記事】