『ラストアフターヌーン』渡邊琢磨
隈元博樹
[ music ]
防波堤に浮かぶ小型船の手前に、のどかな二人組の姿が映り込んでいる。全体のトーンから察するに、時刻は午後の昼下がりだろうか。しかし、アンダース・エドストロームが撮影したこのジャケットが、アルバムのサウンドを表象する「ラストアフターヌーン」であることに、いささかのためらいを覚えてしまう。それは収録されている「Last Afternoon」を聴いたからであり、さらにはリリースに合わせて渡邊琢磨が制作した同名のアニメーションビデオを観たことにも起因している。降りしきる雨、軋み続けるドア、彫像と自動車とのあいだに挟まれた「ラストアフターヌーン」のタイトル。無重力になった空間にはふらふらとテレビが浮かび始め、なぜかそこに人間の身体が吸い込まれていく......。ぼんやりとイメージしかけた「過ぎ去りし午後」は、多層な音の粒子とこれらの奇怪なビジュアルを用いることで我が身に揺らぎを与え、曖昧で幻想と化したイメージへと様変わりしていく。
思えば監督作の『ECTO』は、スクリーンに映る映像とともに出力される「中の音たち」(劇伴、効果音、環境音、台詞)に、その場で実演される弦楽奏者の「外の音たち」を介在させることで、独立された既成の上演/上映形態を混沌とした空間に昇華させていた。つまり映画のためにあったはずの音たちは、横溢する滝水のようにしてたがいに呼応し、上映される映像の前をにわかに先導していく。こうして画面の内外を彷徨する音と、映画に登場する人物たちとが上映と上演によってつなぎ止められたとき、観客は自らの視聴覚を以て心霊体(=ECTO)的体験を手にする。『ECTO』とは、そういった試みだったように思う。
『ECTO』を経た『ラストアフターヌーン』が最も印象深いのは、演奏者たちによる弦楽の音、またプログラムされた電子音たちが、やがて得体の知れない複数の「声」のように聴こえてくる点にある。もちろん収録された楽曲の中に、ヴォーカルの声が存在しないわけではない。たとえば「text」からは、ジョアン・ラ・バーバラによる甘美な声が聴こえてくる。ただし、そうした生身の声でさえ、『ラストアフターヌーン』では各所に配置された他の音の原子と呼応することで、「声」というイメージを先導するひとつのサウンドとして立ち上がる。こうした音たちの「変異」によって、飽くなきイメージを喚起させる稀有な体験が、このアルバムには秘められているのだ。
イメージを喚起させ、それらを先導するためのサウンド。その試みの最前線に『ラストアフターヌーン』があるのならば、ここでの実践とはビジュアルやイメージに付随した音たちの存在を認めることではない。音源を元に制作されたアニメーションビデオを含め、数多の手法で出力される音や声の存在から、喚起されるイメージの可能性を大いに広げることにあったのではないだろうか。だから私たちは、このアルバムに耳を澄ませ、聴こえてくる音から見えてくるオルタナティブな状況、光景、イメージを、それぞれの耳を通して喚起させなければならない。明日が訪れる限り、過ぎ去りし午後は永遠に続いていく。そんな当たり前のことに想いを馳せつつ、『ラストアフターヌーン』の音たちに身を任せては、過ぎ去ったはずのもうひとつの「ラストアフターヌーン」について思考を巡らせてみたくなるのだった。
『ラストアフターヌーン』は2021年5月7日(金)よりデジタルにてリリース中
※5月14日にCD/LP発売予定