『優しき殺人者』ハリー・ホーナー
梅本健司
[ cinema ]
アイダ・ルピノは、監督2作目『ネヴァー・フィアー』(1950年)が商業的に不振に終わり、夫コリアー・ヤングとともに創設したプロダクション、フィルムメイカーズの経営が傾いたことから、RKOのハワード・ヒューズに資金繰りを求める。こうして結ばれた提携はルピノたちにとって不利なものであり、それがひとつの要因となってフィルムメイカーズは1955年に制作を中止してしまう。RKOとの共同一作目である『アウトレイジ』(1950)でルピノは初めてオープンセットを使った撮影をすることになるのだが、その時に舞台美術を担当していたのが『優しき殺人者』(1952年)の監督となるハリー・ホーナーである。プロダクションデザイナーとしてはすでに有名だったが、監督しての経験はそれほどないホーナーがなぜ『優しき殺人者』の監督を任されたのか。それはフィルムメイカーズという制作会社が人材育成という理念に基づき、若手の俳優や経験の浅い映画人にチャンスを与えていたからだ。ハリー・ホーナーは、アイダ・ルピノと、『危険な場所で』(1951)で彼女と意気投合したロバート・ライアンを起用し、18日間で『優しき殺人者』を撮りあげることになる。
『優しき殺人者』は記憶障害とそれによる分裂症に苦しむ殺人者(ロバート・ライアン)と、何も知らずに彼を清掃員として招いてしまった女性(アイダ・ルピノ)の密室劇である。ハリー・ホーナーはサスペンスを生む空間を見事に設計し、そこに緻密に小道具を配置している。そのことが名優ふたりの演技と掛け算になり、本作を小品だが優れたスリラーにしている。
ルピノ演じる女性は第一次世界大戦で夫(クレジットされないが『ヒッチハイカー』(1953年)で殺人鬼を演じたウィリアム・タルマンが夫として写真に写っている)を失った未亡人であり、部屋を人に貸してはいるのものの、だだっ広い家で孤独に暮らしている。かたや、ロバート・ライアンは軍隊への入隊が認められなかったという挫折を抱えている。部屋に飾られたルピノの亡き夫の写真と額のガラスに反射する自身の顔を重ね合わせたり、棚に仕舞われていた軍用コートを取り出し身につけたりと、ライアンの従軍出来なかったというトラウマは視覚的に何度も再現される。束の間彼と居合わせることになる女学生が「清掃員なんて男の仕事じゃない」と言って彼を怒らせる場面があるが、戦争に行けなかったということがライアンの男性性に傷をつけており、そう感じた時にこそ彼は優しい清掃員から恐ろしい殺人者に変わる。密室に閉じ込められ、殺人犯の言いなりにならなくてはならないという設定は一年後にルピノが撮ることになる『ヒッチハイカー』への影響も考えられるが、ヒッチハイカーが終始銃を握りしめる男性性の権化のような人物だったのに対し、今回の殺人者は男性性の希薄さを補填しようとするかのように女性を恐怖で支配する。ライアンは、銃やナイフで脅したりはしない。たまたま手にしたハサミもすぐに手放すことになる。彼は脅すための道具を持たないのだ。
ハサミというのは、逆にルピノが迫りくるライアンに抵抗する道具として持ち出したものであるが、結局彼に力尽くで取り上げられてしまう。この取り上げるというアクションは彼が優しき清掃員である頃から何度か反復されていた。クリスマスが迫り、縦横無尽に歩き回りながら部屋を掃除し飾りつけるルピノは必ず手に何かを持っている。ライアンとの初対面時もルピノは両手にトンカチとクリスマスリースを抱えている。そこでライアンは親切心からそのふたつを代わりに持とうとする。こうしたやりとりは、道具を変えてもう一度繰り返されるが、その「代わりに持ってあげる」という行為が徐々に「取り上げる」アクションにエスカレートしていくことになる。そうして日常的な光景が不穏なものに変わっていくのだ。くだんのハサミをはじめ、鍵、助けを求める手紙、夫の形見、あるいは来客を迎える役目などもルピノは取り上げられる。最終的に彼女は手ぶらで横たわることしかできないだろう。
この映画の興味深い点は、ルピノの機転や外部の人間の気づきによって危機的状況が回避されるわけではないというところだ。ライアンの記憶障害は、自身のしたことを部分的に忘れさせる。劇中、彼は忘れたり思い出したりを繰り返し、それがサスペンスを生むのだが、最終的には殺人者としての自分をも忘れ、自己完結的に事件は解決へと向かう。清掃員としてライアンが家を去ろうとする時、ポケットに入っていたというルピノ宛のパーティーの招待状を彼女に返す。ここでは今まで「取り上げる」という動作によって起こっていたふたりの間のものの流れが逆流する。つまり、ライアンの手からルピノの手へものが渡る。さらに、彼がドアから外に出た直後、ライアンに追い払われたルピノの飼い犬が、そこから入ってきて彼女の腕に飛び込む。これは冒頭でライアンが訪れる前にルピノと犬がこれみよがしに演じた身振りの反復である。こうして映画は、なくなった品などひとつもなく、不自然なことも特にはない部屋で、これからも怯え続けるだろうルピノを宙吊りにしたまま終わる。
フィルムメカーズにおいて、ルピノが監督として活躍していた40年代末から50年代中頃まで、俳優ルピノはこのような低予算のスリラーに多く出演した。そのことが「ボリス・カーロフのスリラー」や「ミステリー・ゾーン」、「ヒッチコック劇場」など、後に撮ることになるテレビ作品に影響を与えたと考えられる。