「山形国際ドキュメンタリー映画祭2021 オンライン日記①」
荒井南
[ cinema ]
山形国際ドキュメンタリー映画祭は、今年はオンラインでの作品上映となった。映画祭につきものの「何本鑑賞できるのか?」に加え、暗がりで観ることに慣れ切った体がオンライン視聴に集中できるのかも気にかかる。とはいえ、開催されたことが喜ばしい。
テキストが書かれた透明なスライドがテーブルの上に置かれ、我々に示される。そのささやかに滑るような音が、かえって耳に残る。16mmで撮影された、なめらかな映像も感動的である。『彼女の名前はエウローペーだった』(アニア・ドルニーデン、フアン・ダビド・ゴンサレス・モンロイ)は、驚くべき静かな映画だ。スタンダードに近い画角は精緻な絵画を彷彿とさせるが、この映画の静けさはそうしたイメージによるものだけではない。冒頭で語られるような、絶滅種をよみがえらせようと心血を注ぐ者たちの熱狂と、作り手は一歩離れた位置にいる。今残る存在がかつての戦争の影を引くものだと挿入されたのち、作品はあらかじめ決められていたかのように冷静な終幕を迎えていく。破壊と創造を人為的に繰り返すことは空疎な営みであることを暗に語りつつ、すでにいなくなった何ものかへの哀感があふれる佳品であった。
『ナイト・ショット』(カロリーナ・モスコソ・ブリセーニョ)は、監督が自身のレイプ被害を映像として可視化した作品だ。乖離してしまいそうな心と体を、監督は自らの気持ちに確と対峙するかのようにミニマムなカメラでとらえ、ハレーションや深い暗闇、あるいは自然に拾われる環境音や楽器の音、逆に人工的な電子音といった映像表現に反映させる。一方で、自分が何をされたのか、誰が何をしたのか(あるいはしなかったか)すべて克明な記録に残すことも厭わない。自身の傷への向き合い方が痛切だ。芸術を通じて自己の痛みを現前とさせる手法も取り、スクリーンが何色もの絵の具で暴力的に塗りつぶされていくさまは、加害者の供述に無きものにされる被害者の声を表しているようだ。救いがあるのは、彼女がレイプについて「恐れていない、怒っている」とし、沈黙を選択していないことだ。時が経とうとも過去はくすぶり続けるが、彼女がかつての生を取り戻そうともがいたこの映画はやわらかな光を放ち、誰かの夜を照らそうとするだろう。
2000年初期、中国国内でSARS(重症急性呼吸器症候群)が猛威をふるうなか、屋外で撮影できなくなった映画作家チャン・リュルは、マンションの廊下と一室だけで『唐詩』という作品を撮った。フィクションとドキュメンタリーという違いはあれど、コロナ禍で様変わりしてしまった日常に視座を持つ『ルオルオの怖れ』(ルオルオ)はまさに『唐詩』を彷彿とさせる。不安げにモノローグを繰り返すルオルオの表情にクロース・アップしたカットが端々に挿入され、父とのさりげないやり取りにも感染症への恐怖がにじむ。だけではなく、耳が聞こえづらい父がボリュームを上げたテレビの前に佇む後ろ姿や、ルオルオが玄関付近で柔軟体操をするカットで最高潮となるように、映画それ自体にはユーモアさえ漂うのだ。それは再び日常を取り戻そうという抵抗にもみえる。閉塞的社会状況下で、身近な存在にしかカメラが向けられないという手詰まりな撮影方法を逆手に取った、極私的記録映画がここに完成した。社会的混乱であるパンデミックをこうして個人の感情から語ってゆく試みも、これからの世界で意義を持つのではないか。そんな予感を抱かせる一本。