「山形国際ドキュメンタリー映画祭2021 オンライン日記③」
荒井南
[ cinema ]
『ミゲルの戦争』(エリアーン・ラヘブ)は豊かな映像表現と複雑なナラティブを持つ。1975年から1990年にかけて起きたレバノン内戦と内的な葛藤という"戦争"を4つのパートで分けた主人公ミゲルの半生は、監督によるシンプルなインタビューシーンの他、写真やイラストのコラージュ、再現演劇とそのためのオーディション風景などで彩られるが、次第に浮き彫りにされてゆくのは、これは実話ではなくミゲル自身が語りたいストーリーであるということだ。そこには虚々実々があり、語ることと騙ることとは、どうしようもなく同義であることを実感する。エリアーン・ラヘブ監督は、家族との抑圧や戦争の惨禍で負ったミゲルの精神を癒やす旅の同行者としてカメラを回す一方、彼が隠そうといていた母に対する加害の記憶も容赦なくあぶり出そうとする。その緊密な関係性はいかにもドキュメンタリーらしく、観ていて高揚する。
終盤、当初本作品が目的としていた物語が、実はミゲルのナラティブによって異なる場所へと連れてこられていたことが明かされ、語りの魔力に驚かされた。人間とは語りたい存在で、それを聞いてもらえることこそが、生きている手ごたえなのだろう。
『光の消える前に』(アリ・エッサフィ)は、ささやかな光が縦横に飛翔する風景から始まる。1970年代のモロッコでは芸術家たちによる反体制の表現活動が興隆を極めたが、そのたび当局から検閲と抑圧を受けてきたそうだ。冒頭の光は、かき消されそうでありながらもまばゆい彼ら彼女らの象徴だろうか。この映画は、政治弾圧の際に失われ、近年スペインで発見されたモスタファ・デルカウイのフィルム『いくつかの無意味な存在』のフッテージに加え、当時の写真やポスター、音楽、何かのシンボリックなマークなどで、熱い季節を現代に蘇生させようとしている。その作り込みは巧みかつ丁寧で、すみずみにまで前世代を生きたアーティストへの敬意が宿る。たとえば引用されたカットにはフィルムの質感がそのまま感じられ、エンドロールにまでコラージュが使われている。プリントに残る指紋さえもくっきりと映されていたのは感動的である。しかしアリ・エッサフィ監督は、この映画を過去についての映画という解釈にとどめておくことはしないようだ。モロッコには国立のアーカイヴは無いそうで、作品が放置され、散逸している状況は現在進行形だからだ。『光の消える前に』というタイトルは、創造という光は簡単に消えてしまうという危機感の表明なのかもしれない。批評眼を持ちながらエモーショナルでもある、今年のYIDFFで最も心を動かされた作品だった。
『武漢、わたしはここにいる』(ラン・ボー)は、スマートフォンが"いま""ここ"という現在地を指し示すツールとなり、ドキュメンタリーのあり方を大きく変えたことを改めて感じさせる映画で、そうした意味でも時宜をとらえた良い作りだと思った。2020年初め、初監督の劇映画作品を撮影するために武漢入りし、直後にCOVID-19による都市封鎖に遭遇した。ロックダウンされ、病院の徴用により非感染の病人が続々と退院を余儀なくされるなか、監督たちは何とか新しい入院先を探して奔走する。そもそも監督たちが一般市民と行動をともにした目的は、武漢で起きている過程のすべて撮ることで新たな長編を完成させることだった。製作者として意識的なものもあったわけだが、次第に市民との共闘の様相を帯びてゆく。その武器となったのが、市井の人々が携えたスマートフォンだった。クルーが撮影できない区域では、誰かのカメラ映像が記録として残った。また、物資の供給などが手に負えない場合は、状況をSNSで共有することが他地域からの救援に結びついた。この映画のなかには、私たちが日々のニュースで目の当たりにしたような、武漢市への人民軍の投入や野戦病院の設営といった映像はない。監督が求めたのは、ボランティアや一般市民に注目して前線に身を置き、SNSを駆使して封鎖中の武漢の様子や援助が必要な人にどうすべきかを発信することだったそうだ。そのことで映画はより"いま"を我々に生々しく共有させる。
この映画の終幕は、ボランティアや患者、その家族たちなど、武漢でクルーが出会った者たちの写真を映してゆくシークエンスだ。撮影クルーが"ここ"にいたことではなく、より多くの"わたし"をすくい取り現在のありかを照らし出した、コロナ禍の石碑のような一本である。