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October 15, 2021

『沈黙の情景』ミコ・レベレザ、カロリーナ・フシリエル
渡辺進也

[ cinema ]

 前回の映画祭で上映された、ミコ・レベレザ監督『ノー・データ・プラン』はなんとも孤独な空気を纏った映画として記憶に留まっている。アメリカ西海岸から大陸を横断する列車に乗っている場面がほとんどなのだが、その旅の道中カメラはいつも横に流れていく窓の外を映し出し、時々その情景に対するコメントがナレーションとして重なってゆく。他の乗客と交流するわけでもなく、何ひとつ出来事らしい出来事は起こらない。後に、監督はこの後アメリカを離れたのだと聞いた。非正規滞在者であったために、今後しばらくアメリカに入国することは許されないのにも関わらず。だとしたら、この旅はアメリカに留まる理由を探す旅だったのだろうか。
 プログラムの中に、ミコ・レベレザの名前を見つけた時に、今回はひとりではなく、共同監督者の名前があった。しかし、『沈黙の情景』もまた、マニラから海を渡ってメキシコまでやってきた架空の生き物の視点を通して、誰もいなくなったその光景をひたすら見つめることにその多くは費やされる。そこに、廃墟となったアミューズメント施設の光景を映しながら時折コメントが、今回は監督二人による会話が挿入される。
『沈黙の情景』というそのタイトルにも関わらず、この無人となった施設は様々な音に溢れいてる。波の音、鳥や虫の声、風に揺れる木々のざわめき。そして、当時流されていたのだろうか、施設を説明する館内放送が流れる。「動物へようこそ。映画の中でしか見れないような光景があなたたちの前に広がっています」。。。人間たちの沈黙がかえって、この場所が持つ豊かな音を甦らせたようでもある。上映後のQ&Aで、監督たちはこの音やナレーションを実験的に作り直したことを語っている(『ノー・データ・プラン』はイヤホンに付けられたマイクによって録音された素材で音が再構成されていたことを思い出す)。撮影された映像は見つめ直されることで、そして音と組み合わされることで、また別の位相へと作り直される。動物園あり、水族館あり、クラブがあり、ホテルがあり、その大規模なマリンリゾートの朽ち果てていく様は資本主義の成れの果てに見えるが、人間がいなくなった後にやってきた海の生物たちはその場所に新たな住処を見つける。その時に、それは資本主義とかなんとか、といった人間的なものを超越してしまっているんじゃないか。
 原題はThe still side。私の弱い英語力からすると随分とこれは変なタイトルに思える。「まだこっち側いる」とでも言った意味だろうか。それはどちらの側?陸の側からではなく、海の側において。それは、かつての賑わいを見せたであろう人類の時間の側からばかりではなく、人類のいなくなった後の世界に想いを馳せることでもある。あちらからこちらを眺める。まだこちら。こちらからあちらへの応答を待つ。まだこちら。そこには、時や場所を超えた不可思議なことが展開されている。