第25回アートフィルム・フェスティバル 小特集「出光真子の実験映画とビデオ・アート」
鈴木並木
[ art , cinema ]
TIFFとフィルメックスの同時開催を横目に見つつ名古屋に向かい、愛知芸術文化センターの第25回アートフィルム・フェスティバルへ。この上映会はすべて無料なので、何本か見ると往復のバス代(早めに予約したので片道2350円)の元は取れる計算。
今回は「特集 映画の声を聴く」と題して、これまで製作された同フェスティバルのオリジナル作品(草野なつか『王国(あるいはその家について)』や小森はるか『空に聞く』など)や、野田真吉、クリス・マルケル、ストローブ=ユイレ、ジャン・モンチー、キドラット・タヒミックといった幅広いプログラムが組まれていた。
目当ては小特集「出光真子の実験映画とビデオ・アート」。出光真子の作品は、近年、あらゆる女性アーティストの作品同様に、フェミニズム文脈からの見直しの対象になっているようだ。彼女自身の人生を知ればなおさら、そうした読み直しをしたい誘惑に駆られるだろう(「海賊と呼ばれた男」のモデルにもなった出光興産の創業者・出光佐三の四女として生まれ、父の強権支配を脱して単身渡米、抽象画家サム・フランシスと電撃邂逅、映像作家となった波乱万丈、紆余曲折については、自伝『ホワット・ア・うーまんめいど ある映像作家の自伝』に詳しい)。
映画はプラカードではない、という言葉があるが、出光真子のいくつかの(よく知られた)映画は、明確にプラカードであり、そこには「女性ならではの」メッセージが書かれている。たとえば、今回は上映されなかった『加恵、女の子でしょ!』は、女と男の若い芸術家カップルの女のほうにだけ理不尽でありふれた構造的しわ寄せが押し寄せる様子を描いていて......と書いていて気付いたが、これ、『花束みたいな恋をした』と2本立てで見てみたい。
主張の強靭さにたじろがされながらも、こうして観客の思考の不意の脱線を誘うあたりが出光真子の魅力で、つまり、掲げているひとがどんな表情をしているか、どんな服を着ているのかまでも含めてのプラカード、なのだ。これもまたよく知られた言葉を引用するならば、顔も性格のうちであり、性格もまた顔のうち、ってこと。
今回のアートフィルム・フェスティバルで上映されたのは、3プログラムにわけられた、長短合わせて13本。出光真子の多面性をうかがい知れる構成だった。もちろん、どんな作家であっても、いや作家でなくてもおよそ人間であれば誰しも、多面性をかかえているのは当たり前で、わざわざこうして書くまでもないのだけど。
『おんなのさくひん』(1973、画面に出るタイトルは『What A Woman Made』)で映っているものの正体は、先にあげた自伝に書いてある。では実際の画面はどうか。ひたすらハイ・キーで、雪原を白ウサギが跳ねていたり、水墨画の筆のストロークを思わせる線が走っていたりする。ナレーションはおだやかな口調で女児の誕生を告げ、次は男の子だといいですね、などと始まるが、よく聞いていると「男の子は風邪をひきやすい」「お姉ちゃんに面倒を見てもらったほうがいい」などとも言っていて、これは必然的に「おとこのもんだい」でもあるのだとわかる。
出光真子『アニムス Part1』
今回のプログラムには、画面内にモニターを配置したいわゆる「マコ・スタイル」の作品は含まれていないが、『アニムス Part1』(1982)はいかにも当時の「ビデオ・アート」らしいものと言えるのではないだろうか。女性同士の、あるいは夫婦の会話がおこなわれている画面内に合成される形で、片方の女性の「内面の男性」(これはわたしの勝手な解釈ではなく、そうクレジットが出る)が登場する。それは真っ赤な全身タイツ姿の小人、あるいは黒タイツをかぶった頭部で、全身で身もだえしたり、対話の相手に跳びかかったり、顔をしかめたりする。
セリフは紋切り型であり、演技としても、ヴァラエティ番組のスキットか再現ドラマのようなものでしかない。理解するのにさほどの集中力を要求されない会話を適当に聞き流しながら、ブラックデビルやモジモジくんのような姿の「内面の男性」を注視していると、その動きや表情が、女性本人の内面をわかりやすくあらわしたようなものではまったくないことがすぐに見えてくる。ふたつが激しく乖離したままで一体化しているのがこの作品で、どちらかだけを取り出しては価値は失われてしまう。(本来は『最後の決闘裁判』もそうした作品であって、なんでもかんでも「問題」を取り出しゃいいってもんでもないはずなのだが......)
出光真子の映像的趣味は、たとえば『At Santa Monica 3』(1975)の、極度にコントラストが強い白と黒だけの画面に凝縮されている。クラゲのダンスのような、水面で激しく動く光。水面に降る雨がつくる、TVの砂嵐を思わせる模様。なんの変哲もない藪が白と黒のパターンへと分解され、具象と抽象の境目が溶けていく。
『ざわめきの下で』(1985)では、映像は映像として見せたいものを見せ、言葉は言葉として母の思い出を語っている。見せたい映像のために言葉が書かれるのか、ナレーションを乗せるために映像があるのか。ふたつは直接には結びつかないまま、切り離し不可能な状態でつながっているから、そのまま呑み込むしかない。
映画では大は小を兼ねない。個人映画にしか到達できない場所は、確実にある。簡単には咀嚼できない出光真子の複雑さに心地よい疲れを覚えて外に出ると、雲の形は具象なのか抽象なのかという問いがふと浮かんでくる。そんなこと、いままで考えたことなかったのに。