第34回東京国際映画祭日記②
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2021/11/2
ソイ・チェン『リンボ』©2021 Sun Entertainment Culture Limited. All Rights Reserved
◆プロデューサーがウィルソン・イップ、音楽・川井憲次に主演ラム・カートンときっちり揃えてくれたソイ・チェン監督の『リンボ』を、香港映画ファンが拒めようか。ドニー・イェンの『Raging Fire』が観られない恨みも手伝って前のめりによみうりホールへ来るも、中途半端に早かった。空いた時間と胃を満たすために吉野家で牛丼。席に着いて、もっと早く食べられる食事にすればよかったと少し後悔するが、それが吹き飛ぶレベルで瞬時に提供される熱々の牛丼に圧倒的正義を感じる。結構満腹になってしまい、これは図らずも寝てしまうかもしれないと危ぶみ、コーヒーを買ったりしていたらもう映画の時間が差し迫っていた。実は私は方向音痴なのだ。旅先ではどんなランドマークでも行かれなかったりするし、初めてやブランクのある場所には実踏が必要だったりする。だからできれば、あらゆる映画祭は新宿でやってもらいたいと痛切に思っている。封切り作品が多すぎてスクリーンを映画祭に割けないのだろうが、交通の便も各館のアクセスもいいではないか。よみうりホールまでの道々でそんなことを考えていたが、来てみればよみうりホールがある読売会館もこんなに近い。ついでに言えば、今回の会場の一つである角川シネマ有楽町は、その一つ上の8階だった。入口からエレベーターで一息に上がれるスムーズさにもありがたみを感じつつ、『リンボ』に滑り込む。
香港のスラム街で起きた連続猟奇殺人事件。いぶし銀ザムと若手のウィル、ふたりの刑事は、左手のない薬物中毒の女性、浮浪者男性という謎めいた存在を若い女性トゥとともに追う。トゥは過去にザムの妻を車で跳ねてしまっており、彼は未だ怒りを抑えきれずにいる。
この映画で特筆すべきなのは、スラム街を再現した空間演出を際立たせる、ソリッドなモノクロの色調だ。終盤、猟奇殺人犯に追われたトゥが、ごみ溜めの中の古い家具に隠れたシーンでは、彼女はスクリーンの右隅に配置され、映像を濃い黒が占めるようになる。雨に濡れたトゥの肌が、狭い四角形に囲まれて白く浮かび上がるハイコントラストのショットから、どんどん映画温度が冷たくなり、最高潮に。そして川井憲次の音楽をまとった悲壮なラストへ...。香港映画よ、永遠なれ。
それでも映画内での女性への扱いを見ていると、作品を手放しでは褒められない。たしかに、本作で犠牲が女性であるというのは、ホラーやサスペンスといったジャンルムービーでの被害者は大抵女性であり、そこに女性への抑圧が内在化されている証左ではある。薬物中毒の女性は犯人の孤独と女性嫌悪に心を寄せ、だからこそ彼も女性の左手に執着していることが理解はできるのだが、脚本の書き込みが弱く女性たちへの惨さとの釣り合いが取れていない。ザムの粗暴さにトゥは無抵抗で、そこには各々の復讐心と贖罪が対置されているのだが、彼らの心理描写があっさりしていて、ザムまでも単なる暴力の加担者にしか見えない。トゥ役のリウ・ヤースーにさせた演技がもし「身体を張っている」という前時代的賞賛を受けるのならば、それはもうそろそろ終わらせなければいけないと思う。
バフマン・ゴバディ『四つの壁』©MAD DOGS & SEAGULLS LIMITED
バフマン・ゴバディの映画は、思い返せば2015年の東京フィルメックス『サイの季節』以来なので、熱心な鑑賞者ではない。今回の『四つの壁』は、家のローン返済のため飛行場に飛来する鳥を撃つ仕事をする音楽家という、明後日の方向の仕事をやらされている主人公ボランの境遇に惹かれて観たのだった。序盤でボランを襲う思いも寄らない悲劇には虚を突かれるも、ここから精彩に富んだ人物の交わりがはじまる。窓から海が見えるアパートを借りたにもかかわらず、不在から戻ってきたら壁で海が見えなくなっていたというゴバディ監督の小エピソードはそのまま生かされているが、そこに人間の罪と罰、贖罪と要素や寓意を詰め込んでいるにもかかわらず、世俗的調子に堕することも、散漫になることも一瞬もなく、緊密で重みがある一貫したドラマが紡がれている。観客にイマジネーションを促す省略されたカメラワーク、空想的演出にも品がある。
何よりも、劇中で使われているクルデュッシュ・ミュージックが素晴らしい。聞けば、劇中で演奏する彼らはみな音楽関係者だそうだ。音楽家が主人公で曲が弾んでいると、それだけで説得力が違うから評価を上げてしまう。ボランが振るうポリバケツの蓋のような打楽器はダフというらしく、私は楽器の演奏は全く門外漢だが、あれだったら楽しくやれる気がする。
自分の前に立ちはだかる壁に、ボランは銃のような武器ではなく楽器を手に取って怒り、抗う。その姿は痛切にして痛快だ。監督曰く、現実が重たいほどユーモアが必要なのだという。しかしだからこそ、銃を手にしなければならないときは、ボランにとって厳粛な岐路になる。その重たい足取りが、今も私の心を踏みしめている。
アントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチ『ムリナ』©Antitalent_RTFeatures
カンヌ・カメラドール受賞のアントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチ監督『ムリナ』のためにシネスイッチ銀座へ。女性への抑圧というアクチュアルなテーマを描いていると聞いて観ようと思った。
ムリナはウツボの意味で、家族を犠牲にしてでも自由を得る主人公の性格の象徴だそうだ。主人公は、クロアチア・アドリア海の島に住む17歳のユリア。漁師の父親アンテとはともに海に潜ることがあるが、彼から自由になることを常に考えている。あるとき、父の友人ハビエルが島を訪れる。都会的な香りがして穏やかな彼に、ユリアは強い関心を抱く。
父のステレオタイプな抑圧像は現実社会の問題であるのだが、保守的な父とは別の存在が外へ連れ出してくれるという構図に、私は新鮮味を感じなかった。何よりもミスリードだと思ったのが、ハビエルとかつて男女の仲だったことを匂わせる母親ネラとユリアを、恋愛感情に絡ませて対立させたことだ。女性同士が抑圧し合わなければならない状況は、父アンテやハビエルのような男性優位社会の下敷きになっているがためである。それを、男性を巡る女性の嫉妬心に収れんさせてしまうのは、マチズモの思うつぼではないか。新人監督で、しかも女性の作り手にこういう映画を撮られると落胆してしまう。島という閉ざされた環境、ユリアが最も愛する海に潜る行為など、抑圧と解放が暗喩としてたびたび表現されるが、こうした主題を選んだのならば、もっと状況への切迫した怒りが欲しい。
ジグメ・ティンレー[久美成列]『一人と四人』©Mani Stone Pictures
ゴバディ監督のQ&Aを聞きながらジグメ・ティンレー監督『一人と四人』を待つ。ついでに東京ミッドタウン前のベンチで、コンビニで買った唐揚げ弁当も食べる。食べているところを煌々と照らされるのは気まずいので、明かりの仄かさがありがたい。そういえば今日は三食食べている(昼間はベトナム料理店で焼きそばと生春巻きを食べた)。映画祭では、なぜか空腹になる。映画を観るという営みは全身運動に近い、と自分では勝手に思っている。
『一人と四人』は、密猟というひそかな犯罪行為がはびこる雪深いチベットの小屋で、森林作業員として暮らすサンジェのもとにやってきた3人の男をめぐる心理サスペンスだ。スクリーンがシネマスコープサイズに開いていき、空撮でチベットの自然をとらえていくシークエンスで、コンペティション部門らしからぬスケールを持っていることに期待感を抱く。こうした雄大さを表現したいのかと観はじめていたが、次第にそれだけではないと気づいた。たしかにここは僻地であり、訪れる人間だけがサンジェの空間であり、時間である。ゆえに、彼は訪ねてきた人間を当然のように招き入れなければならず、壁掛け時計は止まったままなのだ。この映画の重要なエッセンスがこの"場"であり、作り手がそれも見せたいのは間違いないのだが、それよりも瞠目させられるのが、サンジェたちの顔、顔、顔、顔。ワイドスクリーンで上下が切れるくらい寄りで撮り重ねたくなるほど、コクのある面貌をしている。この顔たちにフォーカスが合うと、背景はぼかされて判別できなくなる。この顔たちで、語りの虚々実々を選び取れと言わんばかりに。そうか、顔を撮りたかったのかもしれない。(荒井南)
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◆会場であるシネスイッチ銀座に早く着きすぎてしまった。とはいえ開場15分前であるのにも関わらず、すでに何人か映画館の前で待っていた。私はスマホをいじって待ち時間をつぶすわけではなく、東京国際映画祭のポスターやスタッフの方々が慌ただしくしているのをただ見つめながら、初めて参加するこの場への高揚感に浸っていた。
16時55分頃に少し早いが開場となり、階段を降りて映画館へと入る。手首で体温を測り、消毒を済ませてさらに奥へと進み、いよいよスクリーンの前へ。席は自由席なので、私の好きな真ん中より少し前の席に腰を下ろし、スマホの電源を切って準備万端である。
今回鑑賞したのは、アントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチの『ムリナ』という作品である。十代の少女ユリアは、父権制がしみついた、支配的な父と美しい母とともに島に住んでいる。そこに父の昔の友人ハビエルが訪ねてくる。父とは全く違う柔軟で現代的な考え方のハビエルに刺激され、彼女は自分の将来の可能性を考え始める。
この作品で最も印象的であったのは、やはり「海」である。海の美しさはもちろんであるが、海はユリアを解放してくれるモチーフなのである。この島にいようが父と一緒にいようが、彼女は身体だけでなく心も自由でいられる空間なのである。いつものルーティンでも、心を無にしてただ海に身を委ねる時も、無謀と思われる挑戦でも、孤独のなか闘う時でも、ユリアはいつも海のなかにいる。
彼女には海がある。泳ぐことも潜ることもできる。何だってできる。ラストの美しく力強いスーパーロングショットには、そういった未来への展望を抱かずにはいられない。(井上千紗都)
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ホセイン・テヘラニ『世界、北半球』
◆昼過ぎまで、昨日までの3日間分の映画祭観賞記を書いて、夕方から映画祭に参加。シネスイッチ銀座で、アジアの未来の『世界、北半球』(ホセイン・テヘラニ)を見る。冒頭、路上で鳩を売る少年のシーンから映画は幕を開ける。すぐに、大島渚の長編デビュー作『愛と希望の街』のことを思い出す(シナリオでは『鳩を売る少年』という題だったが、「暗い」という理由で松竹上層部に改題された)。映画中、少年は鳩を売り、母は畑を耕している。父はすでに亡くなっているらしい。畑とは言っても、乾いた砂とごつごつした石が転がっているばかりで、なにか農作物が実るようにも思えない荒涼とした土地。『愛と希望の街』がそうだったように、この家族も生計をどう維持するかで苦境に立たされている。ある日、畑から人骨らしきものが見つかり、戦争の遺物を保存するとの名目で政府に接収されそうになるけれど、母は家族の生活を守るために、そのことを隠そうとする。見ていてわたしは、イスラム女性について考えていた。封建制、家父長制を維持したイスラム世界の規範の中で生きている女性に、はたして「あなたが規範に従順なのは間違っている」などと西洋(化した)社会の規範の中にいるわたしが言えるのだろうか......、と。かつての戦争の死者が生者に抗議するように、畑の中から人骨となって出てこようとも、現在の生活をどう維持するかに苦慮するあまり、そのことすら隠そうとする母。しかし映画の後半、まだ幼い娘が、はるか年長の男性と結婚させられそうになるとき、車座になった男たちに猛烈に抗議する彼女の姿は印象に残った。
続けて、ワールド・フォーカスの『ムリナ』(アントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチ)。場内に入ると、これまでの作品に比べ、かなり人が多い。カンヌ国際映画祭でのカメラ・ドール受賞作品となれば、映画関係者にとっては、まずは見てみたい作品ということになるのだろうと思う。
映画は、青い海に囲まれたクロアチアの小さな島を舞台に、父、母、娘、そして父の旧友の4人を中心に進む。スレンダーな母とグラマラスな娘は、ほとんど全編にわたって、水着や下着といった露出の高い姿をしており、まるでその身体の持つ魅力を、暴力的なまでに誇示しているかのようだ。一方、海水パンツを穿いた男たちは、腹部の贅肉がたるみ始めており、ずり下がった海水パンツの上に、何段かの蛇腹を皮膚で形作っている。しかし、わたしは見ていて、女性たちは美しく、男性たちが醜いとも思えなくなっていった。ユリアの骨董品の壺のようにくびれた胸から腰にかけての流線を見ていると、やや具合が悪くなってきてしまい、途中退出し、少し休もうかと思ったけれども、はたしてこの身体を「美しい」と感じ続けられる観客はいるのだろうかという興味とともに、最後まで見ていた。もちろん、ユリアを演じたグラシヤ・フィリポヴィッチの肢体が醜いものだと言いたいのではなく、まなざされることを積極的に受け入れ、観客を圧倒していくユリアに、文字通りわたしが圧倒され、畏れを感じてしまったのだろうと思う。もしかしたらユリアの父アンテすらも、ユリアの他を圧倒する「女性的」な肢体に、惹かれているのかもしれない。だからこそ、アンテが娘に放つ「男みたいな肩だ」という言葉が耳に残った。アンテは、旧友ハビエルをおだてるために、娘の「女らしさ」を利用しようとさえするが、逆に娘が「女らしさ」をあまりに強く放っていく姿が、恐ろしくなっていき、そんな言葉を放ったのかもしれない。
アソカ・ハンダガマ『その日の夜明け』©Asoka Handagama
今日はシネスイッチの1と2を大急ぎで行ったり来たりするスケジュールにしてしまって、のんびりしている暇がない。続けて、コンペティションのアソカ・ハンダガマ『その日の夜明け』。1929年、英領セイロンに赴任してきたパブロ・ネルーダ(ノーベル賞作家として知られている)が主人公となり、南アジアの強い日差しのなか、緩慢な時間が流れていく。序盤、マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』で描かれたような豪奢な西洋建築のなかで、西洋諸国の領事たちが、セイロンの音楽を論評する。皆、口を揃えて「雑音のようにしか聞こえない」と言うが、ネルーダはそれを美しいと感じると言う。全編にわたって、ネルーダの視点から「美しい東洋」が描かれるけれど、デジタル撮影で細部まで明瞭な、「チープ」にすら感じられる画面が、わたし自身の「映画」という内なる東方世界へ没入しようとする感傷を、拒否し嘲笑っていくようだった。途中、映画から唐突に退場する「ラングーンから来た女」は、『インディア・ソング』の物乞い女のように、ネルーダの邸宅の前で喚き叫ぶ。彼女は言う。「わたしはあなたの欲望だ」と。
セイロン現地人の中でも最下層であると差別されているアウトカーストの女性に、ネルーダは魅了され、糞尿の汲み取りに従事する彼女にとっては悲劇として、ネルーダにとってはロマンティックなアジアの想い出としてクライマックスを迎える。1本の映画が途中から2本の映画に分裂していくようだった。
ラフカディオ・ハーンが日本に来て盆踊りに魅了されたこと、デュラスが描くアジアが実際の地理と整合性を逸しており「デュラジア」と呼ばれること、とある米国の検索エンジンでは「Asian woman」の2語が性的表現としてブロックされること。そんなことが次々頭には浮かび、消えずにいまももやもやしている。
劇場を出たところで、友人の映画監督に出会う。ほぼ同い年の女性。同じ街に住んでいるので、最寄り駅まで一緒に帰った。彼女は、自転車をいつも違う駐輪場に止めているため、どこに止めたかわからなくなったと言い、2人で探す。自分が止めた自転車の場所がわからなくなって夜の駐輪場を探して回るなんて、彼女の映画に出てきそうな話だなと思う。無事に自転車を見つけ、2人でタバコを1本吸ってから別れた。昨日に続いて、帰る方向が同じ人物に会えたため、街に飲みに行かずに済んだ......。(鈴木史)
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◆『四つの壁』(バフマン・ゴバディ)のためによみうりホールへ向かったものの、目前で満席となる。気持ちを切り替えて、向かいの新有楽町ビルにある「とんかつ まるや」で昼食。このエリアでロースカツ定食が700円というコスパもさながら、ご飯と味噌汁のおかわりが無料なのはありがたい。ともあれ、JR有楽町駅の日比谷口を渡った通りに面した新有楽町ビルや有楽町電気ビル、また昨年までスバル座(現在は「よしもと有楽町シアター」)のあった有楽町ビルなど、言わば「しぶいビル」群の地下街は、有楽町エリアになくてはならない食の宝庫のひとつだと言える。ビルならば地上から上階へと上がっていくべき建築物であるはずなのに、なぜかこの一帯を歩くたび、まるで引き寄せられるようにして地下へと潜っていってしまう。名称が「ビルディング」ではなく「ビルヂング」であることにもグッとくるわけで、こうしたエリアは有楽町めぐりに欠かせない。
夕方からはシネスイッチ銀座でアントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチの『ムリナ』を観る。クロアチアのとある島を舞台に、抑圧を振りかざす父のアンテと野心を滾らせた彼の旧友・ハビエルとのあいだで揺れ動く女性たちの葛藤を描いた物語だ。アンテと娘のユリアが海底のウツボを捕らえる冒頭の場面が象徴するように、彼女にとって潜ることは、生活の一部であると同時に、生じる家庭不和、あるいは島特有の帰属意識がもたらす保守思想から脱出するための試みでもある。しかし、ラストシーンの彼女は、自身を取り巻くすべての事物から脱出するために、海底へと潜ることではなく、ただ単に海面上をかき分けて泳いでいくことを選択する。タイトルの『ムリナ』とはクロアチア語で魚のウツボを意味するが、つまりユリア自身にとって最も重要な行為とは、外の世界へと広がる壮大な海の表面を果てしなく泳ぎ続けることではなく、海底の岩々のあいだをするりと縫うようにして潜行するウツボになることではなかったのだろうかと。そのことがラストシーンにおいて気がかりに思ってしまった。
ちなみに潜ることに関して言えば、日比谷にミッドタウンができる前、現在の「ウエンディーズ・ファーストキッチン」の向かいにあった地下鉄の出入口のことをよく覚えている。閉鎖される前は階段の半地下に謎のクラブがあって、近辺からは甘い香水の匂いが漂い、ウーハーの効いたEDMやハウスなどのクラブミュージックが扉の外にいても聴こえてきていた。現在の出入口はミッドタウンの地下にシフトしてしまったけれど、もしかすると有楽町や日比谷とは、まさに「潜る街」でもあるのかもしれないなあと思ったり。(隈元博樹)
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◆映画祭の期間中、毎日2、3作は見るつもりだと宣言はしたものの、鑑賞レポートを書きながらとなるととても予定通りにはいかず、不甲斐なさを覚えながら数寄屋橋へ向かって丸の内線に乗る日々が続いている。自分が映画を見るときはずっと一人だったし、それが何か残念なことだと思ったこともない。映画祭という場においても、(今のところは)それはとくに変わらない。今日映画を見るよみうりホールに向かうエレベーターは家電量販店の隅の狭い通路にあって、この建物は僕にとってはどう見ても「読売会館」ではなく「ビックカメラ」なのだが、東京国際映画祭会場という堂々たる名称とは裏腹なこの間借り感も、むしろけっこう好きだったりする。ということでバフマン・ゴバディの新作『四つの壁』を見る。
視線の映画であることは冒頭のバードパトロールのシーンから明らかである。主人公のボランは空港で鳥を駆除するのだが、このとき、銃を構えて発砲する彼のショットに対する切り返しショットが旅客機を追いかけているため、あたかもボランは機体に向けて撃っているように見えるのである。見ることと射撃することの同義性や、切り返しショットとは前のショットの人物の視界を示すものだという映画の「ルール」を踏まえたひっかけである。したがって『四つの壁』は、厳密には見えるものの信憑性についての映画だといえるかもしれない。このあと物語は、新居のアパートから見える海の景観を奪われた彼の闘いをめぐって展開していく。
ここでもおもしろいのは、ボランの苦情に業を煮やした不動産業者がとった対策で「スクリーン」が登場するのだが、これがあくまでも偽物の光景を見せるものにすぎないことだ。あまつさえ彼は自分がアパートから本当に海を見たのかどうかをも疑い始め、景色はますます遠ざかるばかりである。そもそも問題の景観が映画の撮影地としては実在せず、CGで作成されているようだから、スクリーンの中にしか存在しないものを見ているのは観客もまた同じなのかもしれない。
ただし、ボランはひょっこり海辺に現れて、ボートで暮らしているらしい友人を訪ねたりしている。したがって、彼はどのようにして無限に遠いその場所へやって来るのかという経路が問題となるだろう。映画の終わり近くで、彼は意想外な「ワープ」によって海に現れる。
ゴバディは『サイの季節』が非常に象徴主義的でびっくりしたが、視線を主題とした本作でも観念論的なアプローチが先行しているようで、やや生硬な感がある。クルディスタンを撮っていたときより一つ一つのショットの感興は少なくなってしまった(やはりCGを駆使した自動車事故のスローモーションなどは好きになれない)が、作風の変化を追うのが楽しみだ。
上映が終わって、もしかしたら『NOBODY』の他のメンバーの人も来ていたかもしれないと思いつつ、レポートの締切が迫っているため、なんとなく逃げるように会場を去ってジョナサンで作業をした。ここ何日かずっと早足で歩いていた気がして、もっと鷹揚としていたいとも思ったが、あとは寝るだけの帰り道も自然と早足になってしまった。(作花素至)
2021/11/3
ロアン・フォンイー『アメリンカン・ガール』
◆昼過ぎにシネスイッチ銀座でロアン・フォンイー監督の『アメリカン・ガール』を見た。アメリカに帰りたい──母の乳がんのために、その母と妹と共にアメリカから台湾に「帰郷」したホウイは幾度となくそう訴える。化学療法で疲弊した母と出張がちの父は彼女を納得させる言葉をかけることができない。これをただ反抗期にありがちな・・・と片づけることはできない。強くあってほしい母の体を蝕む病、母を失うかもしれない恐怖は、触知できない不安となって襲ってくる。幼い妹が自分の胸にもシコリがあるように感じたのは、その言いようのない不安が身体的な感覚として侵食することを意味する。またこの作品では台湾とアメリカの文化的な違いが何度も対立させられていた。家の狭さと広さ、学校教育の規律と自由、そして言語の違いとして。英語を流暢に話す彼女らはそのことによって揶揄いや疎外の対象になるが、このことは戦後本省人と外省人の間での差別や暴力において「日本語が話せるかどうか」がリトマス紙として機能した歴史を思い出させる。そういったなか、彼女が憧憬を向けるのがアメリカ的象徴としての馬だ。アメリカから持ち帰った蹄鉄を眺めることに飽き足らず、厩舎を探し出して「自分の馬」に会いに行くがもちろんそれは彼女がそうあってほしいと欲する存在でしかなく、馬は彼女の言うことを聞いてはくれない。彼女がその物言わぬ他者を「自分の馬」の名で呼ぶとき、名付けることの暴力は沈黙の眼差しによって突き返される。そのとき彼女は他者への欲望とその暴力性に気付かされるのだ。
マヌエル・マルティン・クエンカ『ザ・ドーター』©2021 Mod Producciones, S.L. _ La Loma Blanca Producciones Cinematográficas, S.L. _ La Hija Producciones la Película, A.I.E
遅めの昼食を取ろうと銀座から有楽町の方へ歩く。銀座のご飯屋をひとつも知らないのと、ぶらぶら探す猶予はないと腹が言っていたからである。結局行ったことのある有楽町の高架下のカレー屋さんに一直線して、ステーキカレーを食べた。当初の予定では3時間後にもう一本観るつもりだったのだけど、銀座で3時間を潰す術を知らなかったので、予定を変更して再びシネスイッチへ、『ザ・ドーター』を観ることに。
監督のマヌエル・マルティン・クエンカの名は初耳だったが、作品を見れば力があることはすぐにわかった。話としてはこれまでもあったんじゃないかと思えるもので、山間部の人里離れた大きな家で秘匿された存在をめぐって巻き起こるスリラーといった具合だ。その存在というのは妊娠した少女なのだが、彼女は孤児院から抜け出しているため見つかってはならず、見つかればお腹の子もどうなるかわからない。一方匿う側の夫婦は長年子どもができなかったため自分たちの子を欲している。こうして赤ん坊の親としての権利を委譲することを条件に両者の利害が一致し三人の生活がはじまるのだ。このとき、他の者に知られてはならないということがサスペンスになるのだが、ただ隠すだけではなくて、いわば本物の卵を隠すために偽の卵を見せるという手法が構造上設定されているのが面白かった。つまり説話上夫婦が自分たちの子を妊娠していると思わせるための「偽物のお腹」が、サスペンスの強度の高まりと相まって「ホンモノ」の重みを増していくのである。(ジュディ・バドニッツの短編小説集『元気で大きいアメリカの赤ちゃん』にも似たような話があったっけ?)こういった(特に女性の)身体感覚を伴う作品がこの映画祭に関わらず増えているのは間違いない。
シン・スウォン『オマージュ』©2021 JUNE Film. All Rights Reserved-min
『オマージュ』(監督:シン・スウォン)はかなりの力作で大変感動した。イ・ジョンウン演じる映画監督が自身の制作と生活のはざまで宙吊り状態のなか、韓国映画史最初期の女性監督によるフィルムの修復(音声が消失している!)の「アルバイト」を始めるのだが、そのフィルムに検閲でカットされた形跡を見つけ、失われたフィルムを探し始め...。この仕事自体がそれだけで非常に面白そうなことに加えて、女性の監督が映画史のなかの女性たちを、証言を頼りに語り直そうという試みや、検閲という映画が被った政治的な歴史へ意識が、この作品に広い射程と懐の深さを与えている。たくさん話したいことがあるが、限りもあるのでここでは、失われたフィルムを探すという本筋とは一見関係のない死者の声について思ったことを書きたい。イ・ジョンウン演じる主人公が洗面所で壁の向こうに「ここから出して」という幽霊の声を聞くシーンがあって、次の日にアパートの駐車場で放置された車の中から女性の遺体が発見されたことで、彼女はあの声はこの女性の霊のもので隣の部屋に住んでいたんだと解釈する。このホラー味溢れる話を挿入しているのがこの作品の完成度の高さだという気がする。あの声を聞く前から、主人公は助動詞がわからなくなるという状態に陥っており、これは彼女の中の人間的(あるいは言語的)な組成が解けだしていたことを意味する。それはまさに狂気の沙汰だが、この崩壊手前の状態だったことで彼女は失われたフィルム(そして歴史)を探し出すことができた。いや、彼女をして探し出させたわけだとも言える。この映画をもう一度見たい。(安東来)
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◆この日もお昼から映画祭へ向かうぞ、と思っていたけど、干しっぱなしの洗濯物と溜まった食器が目につき、夕方から2本だけ見ることに予定変更。
シネスイッチ銀座でコンペティションの『ザ・ドーター』(マヌエル・マルティン・クエンカ)を見る。少年犯罪者の更生施設で少女が妊娠し、施設の教師とその妻が少女を山奥の自宅に匿う。やがて生まれてくる子供を自分の子だと偽るため、教師夫婦は計画的に妻が妊娠しているように装う。各カットにとりたてて強い印象は感じず、たんたんと平凡な画面が積み重なっていく。教師の妻は不妊であるらしい。少女は夫婦にやがて監禁され、出産が近づけば近づくほど、少女と産まれてくる子供の「出会い」ではなく、「別れ」がやってくるのだとわかる。疲れもあって、少し漫然と見ていたのだけれど、終盤、少女がライフルを手にしたあたりから、どんどん引き込まれていった。邸宅とその庭で惨劇が演じられ、とある人物が死ぬ。少し時間が経ち、雪が降ってくる。カットが変わると、その死体にいつのまにか雪が積もっている。クロースアップで雪に覆われた死体の顔が駄目押しされる。平凡なカットの積み重ねの末、突然、審美的な画面が現れたことに陶然とし、同時にそれを「美しい」と感じそうになる自分を警戒していると、また時間が経ち、次の瞬間にはその「美しい死体」は犬に食いちぎられていた。
またいそいそとシネスイッチ2から1へ移動して、コンペティションの『オマージュ』(シン・スウォン)を見る。最初は母と息子のたわいもないやりとりがコミカルに描かれ、意外と気楽に見れるかな、と思っていたけど、すぐ泣いてしまい、前半はずっと泣いていた。主人公ジワンは、映画を撮ることに行き詰まった映画監督の女性。その行き詰まりは自身が表現者として懊悩を深めたなどということではなく、家庭生活、経済的問題、身体的老い、映画業界の男性から感じる抑圧といった具体的な事象からきている。映画を撮れない彼女は、「韓国初の女性映画監督」の『女判事』という作品のレストアをバイトとして請け負う。その作品は、ところどころ音声が欠落し、検閲でカットされたシーンもある。ジワンは『女判事』の修復のために、かつて映画界で働いていた人々の所在を突き止め、老いた人々に話を聞く。かつて編集技師だった女性は、長年の座り仕事のせいで歩けなくなっている。劇中、若いときの彼女らが写った古びた写真が何度も出てくる。それを見ながら、わたしは、友人たちのことを思い出していた。これまで特に書いてこなかったけれど、わたしも映画を撮っている。もう30歳を越えている。自分や身のまわりのことを思い出し、冷静には見られない。過去のシーンで、『女判事』の監督は、後ろ姿のまま、「わたしはお飾りだ。"韓国初の女性映画監督"という」と語る。そう呼ばれることを引き受けた事実はとても重い。
わたしは『女判事』を見たことがない。欠落はあるけれど、残っているらしい。劇中、とある男性が「クソ映画」と表現するそれはほんとうに取るに足らない作品なのだろうか。取るに足らないとしたら、それを決定したのはいったい誰なのか。
場外へ出たところで、NOBODYの安東来さんと会う。「疲れたしどっかでお茶でも飲みましょうか」と言われたけれど、ついつい「お酒飲めますか?」と聞いてしまい、「飲めます」と言われ、頭の中がお酒のことでいっぱいに。二人で街へ繰り出した。(鈴木史)
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田中絹代『お吟さま』©1962/2021 Shochiku Co., Ltd.
◆祝日で気持ちの良い秋晴れのため、日比谷周辺にはたくさんの人が集まっており、賑やかな雰囲気である。コロナの感染状況も落ち着いてきたため、こういった平和な光景もまた日常的に見られたらと願いつつ、会場であるTOHOシネマズシャンテへと足早に向かった。『お吟さま』の上映が始まってしまう。
言わずもがな、田中絹代は日本を代表する女優である。日本の女性映画監督のパイオニアといった位置づけでもある田中絹代。先月までフランスのリヨンでは、彼女の監督作品が特集上映されていた。映画監督田中絹代が近年再注目されているのだ。そんな彼女の監督作品の一つである『お吟さま』を鑑賞した。
愛を全うしたお吟さまの人生が描かれた作品だが、「女性として」の生き方について強調する台詞が多かった。「おなごの心」、「女としての人生」...。さらに、好きな人に対する女としての気持ち、政治に利用され権力に屈するための駒として生きることへの思いなど、お吟さまの苦悩は彼女の力強い訴えと悲しみに暮れる表情にもよく表れていた。
説明的過ぎる台詞、特に自分の感情や他の人物の感情を察して説明してしまうのは、少々しらけてしまうように個人的には感じた。とはいえ、この作品の主題は「女性」なのである。台詞において女性であることを主張するのも、そういった意図ゆえだろう。それにしても、ほんの少しの出演だったが、岸惠子のあの表情は痛烈に印象に残った。(井上千紗都)
2021/11/4
◆日記屋での朝番を終えてから、初参加。コロナが始まってから、映画館に行くのをやめていた。もう映画館がどういった匂いであったか、どんな色であったかさえ記憶がおぼろげだった。今回は日誌、日記を書くということではあるものの、久しぶりに大きなスクリーンで暗闇の中、映画と一対一で向き合うことに少し緊張を覚える。パスを受け取り銀座へ。カフェ・ド・ルトンに寄りたかったが、絶妙な時間になってしまい、近くのルノアールで済ます。
エンジェル・テン『最初の花の香り』©Portico Media Co., Ltd
はじめに見たのは台湾の女性監督作品『最初の花の香り』(エンジェル・テン)。女性同士が惹かれ合う様子を、ひたすら真っ直ぐなセリフと演出で、映画のもつある種の重さを一切感じさせず場面が進んでいく。また、ある場面の高まりが訪れるたびにメロドラマ風の歌謡曲が流れてくるので、毎回どこか少し取り残されたような気分になった。それでも、イーミンとティンティンが不審者の男性(はっきりとはうつされないが露出狂であると思われる)と出会った夜、その恐怖を"二人"一緒で味わったがために、その関係はさらに密になるかと思いきや、イーミンは突然「仲良くしすぎることは気持ち悪い」とティンティンに言い放つ場面でガラッと空気が変わるような緊張感を感じた。それまで二人の間には存在していないかのように思われた"性"の存在が、男性の性を目の当たりにした瞬間、皮肉にも突如浮かび上がる。どんなにどちらか一方がその"性"からはじまる世界に怯えるより愛することを訴えても、若い二人だけではとても処理しきれない、性からはじまる社会への圧倒的な恐怖が確かに存在するのだ。全編を通して軽やかな恋愛映画になってはいるものの、二人を引き裂いたものの大きさ、社会、それらがどんなにただ人を愛することを困難にするか、感じずにはいられなかった。
ミケランジェロ・フランマルティーノ『洞窟』© 2021 Doppio Nodo Double Bind, Essential Films, Société Parisienne de Production, Arte France Cinema
その後、『洞窟』(ミケランジェロ・フランマルティーノ)へ。序盤から見覚えのある感覚を感じる。ひたすら壮大な風景に自然、言葉のない世界の音に耳を傾けていると、突如、自分が山をみているのか、誰かの身体の曲線を眺めているのか、(なだらかな山が連なる様子は、まるで誰かの背中のよう)洞窟をみているのか、人間の身体の中を覗いているのか、(洞窟のしっとりと濡れた質感は、人間の粘膜のよう)目の前に見えるものを"なにか"と"なにか"だと捉えることをやめはじめる。自分が人間であるという一番慣れ親しんだ感覚と、自然が織りなす様々な形や色、それらが私たちとよく似通っていると思い出しながら、次第に混じり合って、深い一体感となる。映像としてみることで、より一層、溶け合うように導かれる。まさに劇中では、洞窟探索の様子が淡々と流れる中、村の老人の呼吸は浅く、弱くなっていく。高原に風が吹くと、それは老人の肺から生み出された息のようでもある。洞窟というモチーフはありながらも、命がひしめいている様子を目撃したようだった。
帰りにはじめてNOBODY編集部の方々と対面で会う。みんなでお酒をのんで、映画について自由に話した。それは、当たり前のことなのかもしれないが、かなり厳しいコロナという冬を映画館なしで過ごしてきたあとでは、(まだその冬は続いているが)その光景がとても明るく光ってみえた。(中里若葉)
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◆今回の映画祭でシネスイッチ銀座に訪れたのは、私にとってはこれで2回目である。銀座駅A10出口を出てすぐのところにあるので、洗練された銀座という街の空気をあまり吸い込まずに映画館に到達できる。銀座は好きな街ではあるが、その雰囲気に圧倒されて未だにソワソワしてしまう。もう少し大人になったらこの街に慣れるのだろうか...。
『最初の花の香り』は、女性同士の恋愛がテーマの台湾の作品である。ベタなストーリーではあると思うが、二人の思いが丁寧に描かれている印象を受けた。その思いというものが、演出において組み立てられていたのではないかと思う。
そこで注目したのが、二人の対峙する位置である。ずっと片思いをしているティンティンが、その相手のイーミンの背中に顔を向けるという位置である。また、その位置が逆になる場合もある。
高校時代親しくしていた二人が、イーミンの家で一緒に勉強をするときに、ティンティンは甘えるように彼女の後ろに回って体を密着させるし、大人になった今でも気持ちを抑えきれなくなったティンティンは、イーミンの背中を追いかける。ではその位置が逆の場合はどうかというと、乗り物に乗っているときである。高校時代に自転車に二人乗りをして学校から帰る場合は、ティンティンが前でイーミンが後ろにいる。大人になった今はバイクに乗るティンティンがやはり前にいて、その後ろにイーミンが乗っている。
この二つの違いから考えられるのは、前者の場合はティンティンの思いが表された演出であるのに対し、後者は保守的なイーミンが自分に正直に生きるティンティンに導かれることを表しているのではないかということである。台詞だけでなく、コミュニケーションの一環である身体の関わりも、彼女たちの気持ちを示す情報となるのである。性格の異なる二人だからこそすれ違ってしまうこういった恋愛模様は、同性愛でも異性愛においても、観る者の感情移入を促すことには変わりないだろう。
さて、映画が終わってこの日はNOBODYの方々と食事をした。ほぼ初対面の方々ばかりであったが、映画祭で観た映画などの話で盛り上がり、とても刺激的だった。この映画の話題にももちろんなり、中里さんは作品にモヤモヤしたものを音楽の使われ方に感じていたという。なるほど、たしかに思い返すと少しやり過ぎであったように思った。感情が高ぶるようなシーンにせっかく浸っていたのに、物語世界外の音楽がそこに覆い被さってしまったのは、残念な点であったのかもしれない。
それにしても、こうやって映画について議論を深めることはやはり楽しく、ますます身が締まる思いである。皆さんと別れた後の帰り道にも、お話したことやこの映画のストーリーや演出を反芻していて、心地よい気分だった。(井上千紗都)
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田中絹代『流転の王妃』©KADOKAWA CORPORATION 1960
◆去年リマスターされた山中貞雄の諸作はいつロードショーされるのか。TIFFで上映されたあと、すぐに公開されるものだと思ってスルーしてしまったが、今のところテレビ放映しただけ。今回もそうなってしまう可能性があると思って田中絹代監督作のリマスター版は見ることにした。何よりもアイダ・ルピノを研究している者として、同じく女優から監督になった田中絹代(渡米した際にルピノが監督していたという噂を聞き、影響を受けたという説もある)を見逃すわけにはいかない。
『流転の王妃』は満州国皇帝の弟(船越英二)に嫁ぐことになった竜子(京マチ子)の半生を描いている。2年後に撮られた『お吟さま』が望まぬ相手と結婚させられたのに対し、船越英二と京マチ子はおそらく結ばれることを望んでいる。おそらく、とわざわざつける必要があったのは、ふたりがどの時点で恋に落ちたのかということが決然としないからだ。たとえば、こういった物語の場合、最初は望まぬものだったのが徐々に惹かれ合っていったという描かれ方もあるが、どうやらふたりはともに暮らす前から愛し合っているらしい。確かに、初めてふたりが見つめ合い切り返しがなされたときに恋が芽生えたといえばそうなのかもしれないが、それにしてもあっさりしている。
また京マチ子の結婚は必ずしも強制的なものだったと田中絹代は描こうとしてない。周囲の人間が結婚を勧めながらも「本人の意思が大事」と口にするように、縁談を拒否する選択肢は彼女に一応残されてはいる。しかし、彼女は相手に好意を持っているにも関わらず、あたかも自分の意思ではなく結婚を承諾したかのように振る舞う。「みなさまに従います」と。加えて、そのときカメラは京マチ子を捉えることなしに、部屋の外にいる母親の姿を映し出す。
『流転の王妃』は時代の流れに逆らい自らの人生を決定していく女性の主体性を描いているというよりは、揺れ動くナショナリズムやセクシャリティによって主体性をはっきりと見出せないままに翻弄されていく女性を描いている。前述の京マチ子の決断を見せなかったという田中絹代の選択は、そうした京マチ子の主体性の曖昧さを作品全体に波及させることになる。
銀座を歩きながら、YouTubeにアーカイブされている監督田中絹代についてのトークイベントを聞く。三島有紀子監督、映画研究者の斎藤綾子さん、国立映画アーカイブ主任研究員の冨田美香さんが登壇されている。これは、以前国アカで望月優子と左幸子の監督作が上映されたときに斉藤さんと鷲谷花さんもおっしゃっていたことだが、優秀なスタッフが集まり、そこで良い仕事をさせられるのもまた監督の力であるということが今回も強調されていてよかった。銀座まで来ると映画祭など開催している雰囲気もなく、映画祭とは無関係な人々とたくさんすれ違う。顔を見ればその人の気持ちに迫れるだなんて、もしかしたらクロースアップに慣れてしまったせいで勘違いしてるのかもしれない、と道ゆく人の何を考えているかわからない顔を見ながらたまに考えることがある。最近はマスクのせいでそんなことを思うことはなかったけれど、その日の銀座では意外に素顔を見せて歩いている人が多くて久しぶりそれを思い出した。
『洞窟』におけるクロースアップは感情を描写するために撮られていないし、そう配置されてもいない。たとえば、老いた牛飼いの顔が寄りで何度も捉えられるが、彼の感情なんて一切わからないし、気にもならない。ミケランジェロ・フランマルティーノ監督のクロースアップは感情ではなく顔そのものの微細な動きを捉えるためのものだ。それは動物に向けられたクロースアップどころか、風や光、雲で刻々と表情を変えるカラブリアの山々に向けられたロングショットとほとんど変わらない。生物だろうが無生物だろうが、あるいは死んだ後の亡骸だろうがそこに運動があるはずだとひとつひとつのショットが告げている。洞窟探索隊が行き止まりを発見したことと、牛飼いが死にゆく場面が並行して見せられるのも、それゆえに自然なものとして納得できる。
ロレンソ・ビガス『箱』
シンプルなタイトルが続くが『箱』は、『洞窟』のようにその内部を撮ることはせずに、出来事はその外部で起こっていく。とはいえ比べていいほど繋がりがある2本ではない。父親の遺骨が入った箱を渡された少年がその帰りに父親と同じ顔の男に出会う。のちに実は遺骨は別人のもので父親は生きており、目の前のその男だったことがわかる。同じ顔の別人だと思っていた人が実際は本人だったというと『めまい』を想起するが、息子と父親の以前の関係がほとんどわからないだけに、そのアイディアがどこまで生きているかには疑問が残る。親の犯罪に子供が手を染めるという物語は特に珍しいわけではないけれど、最近だとミランダ・ジュライの『さよなら、わたしのロンリー』と比べられそうだ。(梅本健司)
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◆昨夜飲んでしまったので、早く起きられるか不安だったけど、一般スケジュールで朝イチに上映がある作品のチケットを買ってしまっていたので、無理矢理起きた。TOHOシネマズ シャンテで、日本映画クラシックスの『流転の王妃』(田中絹代)を見る。陶然としてしまった。立て続けに新作を見てきた目が、この黄金期の大映で撮られた映画の撮影、照明、美術、衣装、その他全てに圧倒されてしまう。開巻、スタッフクレジットのバックは、並木路を歩く女学生姿の京マチ子。黒い制服に抱えた真っ赤なバッグとスケッチブックが映える。顔の映らない兵士たちが、自分を追い越して行くなか、彼女はあえてゆったりと歩みを緩め、きびきびと行進する統制された兵士の動きをうっすらと笑みを浮かべまなざす。そんな彼女だけど、劇中、皇族に謁見するシーンでは、顔を伏せたままおずおず動き、皇族に対する公家華族として適合した所作を見せ、愛新覚羅溥儀の弟、溥傑に嫁ぐため満州に渡ると、中国式の衣装を纏い、中国流の所作を完璧にこなす。「伝統」のなかで、彼女の身体が、行く先の「伝統」に適合していく。けれども、日本と満州に引き裂かれた存在のため、「伝統」のもたらす規範的動作が、「演じられたもの」だと彼女はつねに意識し、疑っているのだろう。
見ていて、どうしても日本の皇室の婚姻をめぐるゴタゴタを扱った最近のゴシップを思い出す。この映画に描かれたものはいまだ過去になっていない。「伝統」などというものは、つねに破壊されるべきものだという気すらしてくる。はじめにこの大映黄金期の映画に「陶然としてしまった」と書いたけど、もし「古いものは美しい」などと言って愛でるようにこの映画を「古いもの」としてまなざすなら、それは彼女たちの身体を、傷めつけることと同じじゃないかと、自分のなかの警報アラートが鳴る。
カルトリナ・クラスニチ『ヴェラは海の夢を見る』©Copyright 2020 PUNTORIA KREATIVE ISSTRA _ ISSTRA CREATIVE FAC
有楽町からシネスイッチ銀座に移動していたら、意外と時間が経ってしまい、食事は後回しで、コンペティション『ヴェラは海の夢を見る』(カルトリナ・クラスニチ)を見る。少し疲れが出て、ぼーっとしてしまった。この映画はサラッと触れることにして、リラックスして見ようと決める。でも、自殺した夫が違法賭博に手を染めていたことが明るみになり、裏社会の男たちが暗躍し、妻に身が危険になっていくという前半は、ぼーっとできたものの、後半になって娘と母の関係に物語が集約されていくうちに結局ボロボロ泣いていた。前半ぼんやりしていたので、物語の流れに沿って書くことはできないけれど、終盤、娘が初老に差し掛かった母に、「なぜいつも従順でいたのか?」と詰め寄る場面に胸が痛かった。わたしも母を、似たようなことで責めたことがある。なぜわたしに、まわりが押し付ける規範的な生き方をしろと押し付けたのだ、と。なぜ、みんなの言いなりだったのか、と。つい最近になって、子供の頃、食卓の椅子に一度も座らず家事をしていたあの母が、自分の意思をわたしに初めて口にした。「わたしは、生まれ変わったら、ひとつだけやりたいことがある。それは、いろんなことを自分で決められるようになりたかった」。それを思い出した瞬間、どうしようもなくなり、ただヴェラが車を走らせる姿に自分の母のおもかげを見るばかりで、ただ泣いていたので、感想は書けないと思った。
泣きすぎたので、少し休憩。銀座にいるんだから、ナイルレストランのムルギーランチを食べにいく。昔、銀座にいた、元ホステスの友人に教えてもらったお店。チキンカレーなのだけど、大きな骨つきチキンから目の前で身を剥がして、ほぐしてくれる。それを今度は自分で混ぜ、食べる。量が多いので、そこだけ注意が必要なんだけど、辛いのが好きな人はぜひ食べてみてほしい。帰り際、店主に「お気をつけて、お嬢様」と言われる。余談だけど、今年に入って、中華料理屋、ケバブ屋、そしてこのカレー屋に「お嬢様」と呼ばれていて、むしろ日本生まれ日本育ちだろうなという人からは、「お嬢様」という言葉を聞いたことがない。独特の在日外国人飲食店言葉なのかな......。
シネスイッチ銀座に戻り、TIFFシリーズの『最初の花の香り』(エンジェル・テン)を見る。女性同士の恋愛を描いたものなのだけど、冒頭、主人公が他人の結婚式に行くと、受付に女性が二人並んでおり、「どっちが新婦?」と聞くと、「どっちも新婦です」と笑われる。そのシーンからもわかる通り、同性婚がそれほど珍しくないものとして扱われている。実際、台湾はアジア諸国で最初に同性婚を合法化している。この映画の興味深いところは、高校時代に仲が良く、恋愛関係に発展しかけたふたりの少女のうちひとりが、自分の恋心と社会的規範からの逸脱することの恐れに折り合いがつけられなくなり、相手の少女を傷付け、恋から身を引いてしまう。その身を引いた女性が、大人になり夫と息子を持ってから、かつて好きだったその少女と再会し、恋をやり直そうとするところだ。この、あのとき恐れた恋が、いまならできるかもしれないという感情は、冒頭に描かれたように台湾社会の変化とも関係してるだろう。ただ、夫が異性愛規範に従順で家父長的な思考をかなり内面化した人物であり、あまりに類型的な「悪しき夫」という印象を受けてしまうけど、まぁ実際そういう人をたくさん知っているので、やりきれない......。
今日の最後は、同じくシネスイッチ銀座で、ワールド・フォーカスの『洞窟』(ミケランジェロ・フランマルティーノ)。とにかく、全ての画面が固定ショットかゆるやかなパンのみで構成されているにもかかわらず、つねに画面に動きがある。木立の合間を見え隠れしながら進むトラックや、放牧された動物の上に雲の影がゆっくりとかかっていくロングショットなどを見て途方に暮れていると、竪穴の洞窟がまたまたゆっくりとしたパンで映され、画面が吸い込まれるような闇で真っ黒になった瞬間に、火を灯した紙の束が画面を切り裂くように岩肌を真っ赤に染めながら上から下に落下していく。洞窟の調査隊が上から下に降りていくにつれ、フレディ・M・ムーラーの映画に出てくるような傾斜の急な山岳地の小屋に住む老人が衰弱していく。都市と離れた自然ゆたかな地や、生命がやがては死ぬということは、フランマルティーノの『四つのいのち』でも主題となっていたけれど、今回はレナート・ベルタの撮影によって、『四つのいのち』を見たときの水平的な印象に加え、そのゆるやかな水平パン撮影に、燃えながら急速に落下する紙束のような垂直的なイメージが、突如画面に持ち込まれる。思いがけないカットの連続を食い入るように見つめてしまい、なんだか悔しい気分になった。
劇場を出て、NOBODYの隈元さんが有楽町の飲み屋にいるというので、向かう。結局、編集部員が6人集まり、ワイワイ飲む。場所柄、周囲を完全にスーツ姿のビジネスマンに取り囲まれてしまった。わたしたちは肩身が狭い。わたしの座った席の背後に、スーツ姿のビジネスマン6人組がおり、巨大な背中がわたしの背中にガンガンぶつかるので、隈元さんらに頼んで、少しテーブルをずらしてもらった。以前は六本木で開催されていた東京国際映画祭だけれども、今年から銀座・日比谷・有楽町を中心として開催されることとなった。どちらにしろ、ビジネスマンの多い街だ。わたしは映画を作りつつ、美術家でもあるので、ギャラリーを巡るために銀座へ来ることがときどきあるけれど、シネパトスなき今、映画ファンはかつてほど頻繁には来なくなってしまったかもしれない。そんな銀座で、いつもは新宿や渋谷でしか会うことのない映画仲間たちにバッタリ会うのはけっこうたのしい。知り合いとバッタリ会うことがあまり苦ではないわたしにとって、映画祭というのはけっこう好きな存在だ。今年は、山形国際ドキュメンタリー映画祭がオンライン開催だったため、街を狭い範囲で回遊して、バッタリ人に会うという山形的体験ができないかもしれないと思っていたけれど、高層ビル群の中でそれが再現されたようで、ちょっと皮肉だけど面白い。いまのところそれぞれの作品は、各作家の思考の形跡が確かに感じられ、どれも興味深かった。深く心を動かされたものもある。ただ、映画祭自体にいくつか気になったことがなかったかと言うと嘘になる。たとえばプレス申請には「男性・女性」の二択を迫る必須記入項目があったし、一般チケットの購入にはなぜか年齢記入が、「○○代」という書き方だったとはいえ必須だった。それらの項目にチェックすることにストレスを感じる人はいる。女性作家や、差別構造を主題にした映画、性的マイノリティを扱った映画を多数ラインナップしているにもかかわらず、そういう点で旧態依然としていると、それらはお題目的に利用されているだけなのではと疑念も湧いてしまう。単純にマンパワー不足で、脇が甘くなっているのだとやさしく思ってみたりもするので、来年には変わってたらいいな。(鈴木史)
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◆銀座や有楽町は以前3年近くアルバイトで通ったのだが、学生が気軽にあちこち遊べるような場所でもないし、未だにおのぼりさんの観光客的な気分が抜けない。ずいぶんと権威主義的な場所のような気もするけれど、実をいうと幼少の頃からこの地域には憧れがあって、それはたぶんゴジラが現在の和光や有楽町マリオンと一緒にうつっていたからだと思う。今日は和光の裏で楽しみにしていたロレンソ・ビガス監督『箱』を見る。
少年が、死んだと思われた父親にそっくりの人物に出会って行動を共にする。その男マリオは日雇い工場労働者の斡旋の仕事をしていて、かなりいかがわしい雰囲気を漂わせており、少年は危険にさらされるようになる。
基本は少年の一人称的なショットで構成されているのだが、定期的に地上10メートルくらいからの大ロングショットが挿入され、メキシコのだだっ広い大地とその中の米粒のような人間が対比される。晴天の下の風景は美しくもあるが、無機質でがらんどうで、よそよそしい。乾いた空気の中に、少年を陥れようとする張りつめた意識のようなものを感じる。
また一人称の部分にも、ときおり微妙なズレがあらわれる。たとえば、箱を抱えてバスに乗った少年をとらえた固定ショットは、少年の顔の下半分をフレームで切ってしまっていて、奥の車窓を大きく入れ込んでいる(よく見ると窓には彼の顔全部がかすかに反射しているが、彼は必ずしも自分の顔を見つめているというわけではない)。さらに、少年とマリオらがピックアップトラックで夜の工場にある物を回収しに来るときのショットは座席後部からの『拳銃魔』(1950、ジョゼフ・H・ルイス)構図だが、キャメラは少年が最後に降りても無人の車内を少しの間、うつし続けている。ここには確かに映像による文体があって、さりげないひっかかりが映画への興味をかきたて続けてくれる。僕はけっこう好きだ。
「箱」というと立方体を思い浮かべていたが、銀色の小さな棺のような多角形であった。昔のSF映画に登場しそうな何かの装置にも見えて、どこか別の惑星を撮っているような映画の全体的な雰囲気とも関係があるかもしれない。そしてもう一つ、マリオのトラックの荷台にも銀色のボックスが据え付けられている。これは本当に人間一人が入ってしまうくらいの大きさだ。どちらも箱の中身は得体が知れない。
上映が終わった後、はじめて『NOBODY』のTIFF参加者の皆さんと懇親できた。見た映画の話を誰かとするのは久しぶりで嬉しかった。ささやかではあったけれど、こういうのが「映画祭」なんだろうか。(作花素至)
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◆シネスイッチ銀座で『洞窟』を見た。洞窟というモチーフで思い出したのは小田香監督の『セノーテ』(2019)であるが、セノーテの洞窟群は先住民の生活圏内に位置し、彼らの儀式的・宗教的場となっていたのに比べると本作に出てくるカラブリアの洞窟は人里離れた山間部の平原にあり、牛飼いたちの小屋はあるものの、人間的営為とは無縁の場所である。つまりこの洞窟は人間の営み・歴史との関係の中にある自然(史)としてではなく、まさに前人未到の全き自然として描かれているのだ。映画はこの構図を明確にする。冒頭に村民たちが見ている高層ビルの映像によって人間の高さへの挑戦と克服の様が提示されている。洞窟に落とされた雑誌の表紙がケネディだったことも極めて示唆的だ。そして洞窟学もそんな人間的な欲望によって突き動かされていたのだ。だからこそ、学者たちが真っ暗な洞窟内をどんどん進んでいく様子は緊張感と静かな興奮があった。人間的欲望とそれを複雑な形状と滑りやすい内壁でもって妨げてくる洞窟=自然。映画的でもあり面白いなと思った。ところが、この映画はそのような構造に特異点を用意しており、それが牛飼いの老人で、彼は学者たちが洞窟内探査を始めた頃に倒れて昏睡状態となるのだ。ここまでは面白い布置だと思った。一切言葉を発する様子もなく動物の鳴き声を出す老人が人間対自然という構造を崩している。そう思ったのも束の間、町から来た医者が老人の目にライトをかざすシーンと洞窟内をライトが照らすシーンが並べられ、急につまらなくなってしまった。観念論的でロマン主義的で、惜しいことをしていると思う。
本作に限らずだが、エンドロールが流れ出すとすぐに席を立つ人がかなり多いことに驚いている。もちろん人それぞれ事情があってどうしても最後まで見ていられないことはあるだろう。でもエンドロールを見ないでその映画を見た気になれるだろうか。作り手へのリスペクトだってある(僕は誰が何をしたのかなど名前を見るのが好きというのもある)。ただそんなことよりも、あの黒地に下から上へ文字が流れていく感じとか、そこで流れるBGMとか、客電がついて「終わったあ」という感じとか、僕は結構好きなんだけどな。(安東来)
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◆普段、映画館で35mm映写の仕事をし、フィルムの修復にも興味のある私が今回の映画祭で最も楽しみにしていたのが、シン・スウォン監督の『オマージュ』だ。仕事場から勇んだ気持ちで向かう途中で、映画祭会場付近の喫茶店にいる隈元さんに会うことになる。夜の暗がりのなか、日比谷で降りて有楽町電気ビルのドトールへ行くという、方向音痴にとって過酷すぎるミッションを私がこなせるのか心配だったが、思いのほか分かりやすかった。シャンテ問題といい、慣れていないことに対して人間は浅はかな印象を抱くものだ。一昨日の日記で「映画祭は新宿でやってくれないか」と書いたが、この銀座・日比谷エリアは考えたよりもコンパクトで良い。そしてもしもまだスバル座が存在していて、古の空気のままに上映を行ってくれていたら、今回の東京国際映画祭の会場に名を連ねていたのではないか。そう思うと、少し鼻がスンとなる。
首尾よく隈元さん、後から来た井上さんに会うことができ、楽しみな映画を観る高揚感のままに、豆乳ラテを飲みながら昨日見た映画の感想をまくし立ててしまった。『オマージュ』の時間が近づいてきてしまったのでその場を辞する。有楽町電気ビルからシャンテまでも近い。今回の映画祭で、私はすっかりシャンテと仲良くなった気がする。
中高年男性で売れない映画監督の話は腐るほど見るが、うち女性が主役なのはどれほどだろうか(今年は一本だけ『チャンシルさんには福が多いね』があった)。そうした意味で、質素な魅力のあるイ・ジョンウンを不遇な映画監督ジワン役にキャスティングしただけでも、この作り手はよく分かっている。彼女の夫サンウ役にはホン・サンス作品でお馴染みの俳優クォン・ヘヒョで、映画界を含め社会の性平等に働きかけている彼を起用しているのも、映画内の文脈以前の問題意識として作り手の行き届いた神経を感じる。
劇中、ジワンが修復を請け負う映画『女判事』は、社会的身分を持つ主人公が、家族の無理解と嫌味に耐えながらも職責を全うし、一家庭の妻と嫁としての義務を果たし幸せな家庭を築く話だ。家父長制が決めた役割が固定するなかで、主人公がただ一人女性としての本質的自由を得ていこうとする姿を描き、映画は存在自体が歴史だと言われた。韓国映像資料院によって消失していた16mmの一部が発見され、デジタイズを経て2016年のソウル国際女性映画祭で上映された。ジワンはこの『女判事』の失われたフィルムを発見しようと奔走する。実際に『女判事』を手がけたのはホン・ウノン監督だが、劇中ではホン・ウィジョンとされている。この名前の絶妙なずれは、フィルムの復元を縦軸にした『オマージュ』のまなざしを画面外に広げようとする。これにより本作は、『女判事』というフィルムだけではなく、忘れ去られ、いなかったことにされるあらゆる女性への敬意となるのだ。ジワンがそうであるように、女たちは女性として生きる揺らぎや葛藤と常に対峙し続ける。監督はそこに厳しい覚悟を持ちつつも、映画は優しい。
韓国映画を観ると酒が飲みたくなる。有楽町のようにそこかしこに気の利いた一杯飲み屋が多いとなおさらだ。そして、どうやらNOBODY仲間が集まっていることを聞きつける。こんなにお膳立てがされているにもかかわらず、原稿を書かなければならない。自分の筆の遅さを恨みつつ、有楽町の賑わいを後にした。(荒井南)