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December 15, 2021

『レズビアンハーレム』細山智明
千浦僚

[ cinema ]

 画面に出るタイトルでは『レスビアンハーレム』。日本語で常用されている女性の同性愛を指すレズ、レズビアンはなぜか濁点つきだが、原語のlesbian からすればたしかにこの「レスビアン」のほうが正しい。
 小沢昭一の文章や藤井克彦監督によるにっかつロマンポルノ『実録 桐かおる にっぽん一のレスビアン』(74年)、『レスビアンの女王 続・桐かおる』(75年)でその存在がいまも知られるストリッパー桐かおるが70年代に彼女のショーでアピールしたときにはおそらくまだ知られぬ新鮮、新奇なものと見られて翻訳的に「レスビアン」だったのが、いまはなぜか「レズビアン」という言い方のほうが普及している。この「レズビアン」のほうの由来と流通はどのようなものかわからないが、ファーストジェネレーション的な「レス」表記から一旦切れた別回路という気がする。......ちなみに『実録 桐かおる にっぽん一のレスビアン』はドキュメンタルなロマンポルノとして、時代の記録として、かなりな傑作。
 lesbianの語は古代ギリシャの女性詩人サッフォーがレスボス島(Lesbos)に開いた女性のための学校(とサッフォーの女性愛賛美の作風)に由来するが、日本のポルノ文化のなかで不意にこの「レズ」ではない「レス」に遭遇すると、70年代桐かおるから紀元前6世紀サッフォーまでに接続する大きな流れを感じてしまう。
 という細山智明監督作品『レスビアンハーレム』(87年)だが、同監督の『ミス20才 快感!百合子の本番』(86年)、『ボディ・スペシャル 調教』(86年)に見られるような戯画化と寓話化、書き割り的抽象的な空間の見せ方はより強くなっており、それは深化というよりもさらなる表層化、ペラペラ化、いいかげん化、だが、その遊びはまた大胆で面白いものとなっている。シーンの移行、つながりの部分が赤、ピンク、黄、などの色画面にナレーションがかぶさるものになったりもする。
 親に強いられた男との結婚がいやで、19歳2ヶ月と19歳4ヶ月の女の子どうしのカップルが心中しようと森に行く(待ち合わせ場所は新宿アルタ向かいの東口広場)。森で自殺のお道具、ハンマー(ピコピコハンマー)、ロープ、アイスピック、包丁、拳銃、毒薬をピクニックシートの上に広げてためらっていると、日常業務のキノコ狩りに来た杏(橋本杏子)が。あいかわらずの、あの橋本杏子的な愛すべきザックリ感で、え、あんたら死ぬの。手伝おっか?え、いや?あっそ。お腹減ってない?ウチ来る?となって、誘われるまま二人は女ばかりの国にたどりつき、そこは皆、女どうしで愛し合っていて心安らぐ土地なのだけれど、同時に巨大な男根を生やした気まぐれで邪悪な女王(秋本ちえみ)と彼女に忠実な憲兵が支配する国でもあって、この女王のターゲットにされるとさんざんに責められる、と。
 このへんまで見てきて、あ、と思うのは、この映画が完全に女性しか出てこないということ。非常におもしろい試みであり、その一面だけをみればジョージ・キューカーの『女たち』(39年)と同様、と口走りたくなるが、これはむしろ女王役の秋本ちえみが股間にそそりたたせた棍棒か消火栓のようなペニス(電飾されている。絶頂になると花火を噴き出す)に集約され象徴されている、男性性による支配に対する女性たち、という物語であって、そうなればドン・シーゲル『白い肌の異常な夜』(71年)の巧みなポルノ的ファンタジー的翻案に見えてくる。
 この女王が女王として君臨し、その強精ぶりとテンションを保つには先述の橋本杏子のキノコ係が採取してくるキノコが必須であり、ゆえにこの王国ではキノコ係は重要な役割なのだが、本作でこの、森のなかを籠を下げてキノコ採りにいく女の子、という図を観たときにやはり『白い肌の異常な夜』を連想したし、また『レスビアンハーレム』によって私はかのドン・シーゲル=クリント・イーストウッドのあの映画が、本来ユートピアとなりうる女たちの国がペニスの存在をちらつかせることで統べられてしまい堕落すること、それを自浄するためにペニス(いや、実際にはイーストウッドの脚、ですが)は断たれる、いよいよのとどめはキノコ狩り担当の少女によってなされる、ということにあらためて気づいた。鈍感な私がそうなるためには、せいぜいマッシュルームぽい丸まりどまりだった『白い肌~』のキノコが、本作『レスビアン~』のチンコ型キノコに戯画化され、それをハフハフ食べながら白目むいておのがチンコを撫でさするという秋本ちえみ嬢の熱演が必要だったわけだが...。車寅次郎の口上に「粋なネエチャン立小便」というのがあるけれど、本作のなかにもさりげなく憲兵が伝令に行く途中で立小便をするカットがある。しかしこれは女憲兵が粋であることを描いているわけでなく、権力の側にいることでまるでペニスが生えてきているかのような振る舞いをする、ということだろう。本作はバカばかしさとコメディ性の背後に極めて的確な男根、権力、専制、男性性批判を持っている。
 いわでもなことだが細山智明監督作『ボディ・スペシャル 調教』はロバート・アルドリッチ『カリフォルニア・ドールズ』(81年)の女子プロレスを女相撲に置き換えたパロディというかオマージュというかイタダキ映画である。この手の映画的遊びは画ヅラを似せていくことや、どうですホラご存知の、という感じばかりが先行するといやなものだが、私などが『ボディ・スペシャル~』を観てしみじみと感動するのは、アルドリッチの『~ドールズ』で、一同が旅しています、というつなぎの場面、風景のなかを走る車の映像にピーター・フォークがレスラーの女の子たちに自分の家族の来歴などを語る声がかぶってくるあの情感が、画面も中身も異なりながら池島ゆたか扮するマネージャー影田が車を走らせながら女力士トマホーク杏子(橋本杏子)に語る場面にちゃんと再現されているところで、そういう細山監督の把握力の良さに、いままた『レスビアンハーレム』でも遭遇する思いがある。『レスビアン~』脚本クレジットは細山監督の変名、おなじみ鴎街人と、それよりビリング先に松岡錠司、秋山未来で、下敷きと道具立てには「不思議の国のアリス」も感じられるが。
 男女のからみが皆無で、主題としても男性性への批判が感じられる本作だが、序盤の十数名の女優によるオナニー大会、終幕部分の同じく大人数によるレズからみには刺激された。また女憲兵たちの見せ場において、濃いカーキ色、黄土色の旧日本陸軍軍服のなかから女性たちの白い肌、ピンクの乳首が現われるのは、根菜や地味な色の果物の皮を剥いたのちにそのかぐわしい実に触れるような鮮やかさがあった。私の網膜を焼き、もっともグッときたのはポルノ的でもなんでもない場面の、これから表返って、少女たちが心中道具として持ち込んだアイテムを武器にして殴りこんで女王をやっちまおう!という話をする橋本杏子の普通の着衣からチラ見えした光沢あるライムグリーンのキャミソールの肩紐部分だが......。(橋本杏子さん......、ユルダボパステル80'sファッションのベストドレッサー、鬱蒼としたコワい髪、広い肩幅、猫猫した目、あのいけしゃあしゃあとした物腰......、控えめに言っても最高の女優ではないか)(←ただのファン)。
 専制、恐怖政治に抗しうるもの、ひとにそれを受け入れがたくさせるものはパーソナルな感情、愛だろう。本作や、パゾリーニの『ソドムの市』(75年)のアフリカ系メイドさんと通じて射殺される兵士とか、近畿財務局の赤木氏と未亡人のことなどからそう思う。
 『レスビアンハーレム』、そこがユートピアでないならば、必ず有用な主題、愛情とそれを圧殺してくるものへの抵抗、を描く、優れた寓話であった。

シネロマン池袋にて12月10日(金)~12月16日(木)上映