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December 23, 2021

『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト
山田剛志

[ cinema ]

 エドガー・ライト監督はこれまで手掛けてきた作品において、自身が過去に影響を受けたフィルムにオマージュを捧げてきた。個人的には、『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985)のセリフがそっくりそのまま主人公によって叫ばれる、『ホット・ファズー俺たちスーパーポリスメン』(2007)のクライマックスがとりわけ印象深い。
 本作はホラー映画としてカテゴライズされてはいるものの、悪夢に囚われてしまった主人公がイメージを飼い慣らし、自立するまでを描くビルドゥングス・ロマンとしての結構も備えている。
 60年代カルチャーに耽溺する主人公・エロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、デザイン学校へ入学するため、田舎からロンドンへ出るも、寮生活に馴染めず、歓楽街であるソーホー地区の築古アパートの最上階に移り住む。夜が更けるとアパートの一室は「劇場」と化す。眠りに落ちたエロイーズは憧れの60年代にタイムスリップを果たし、歌手を目指すサンディ(アニャ・テイラー・ジョイ)がマット・スミス扮するジャックと出会い、やがて騙され、娼婦に身を落とす過程を、鏡の中から「観客」として見つめることになるのだ。
 確かに、エロイーズは時にサンディと身を交代させ、ジャックとダンスに興じたりもする。しかしそれは、エロイーズの位相が「観客」から「プレイヤー」に移行したというよりかは、観客としての立場から映像に「自己投影」をしているというニュアンスが強い。なぜなら、この時点でサンディの映像はあくまで、真夜中の間、アパートの一室という限られた時空間にのみ現れるのであり、朝が来て部屋を出れば、いつもと変わらない日常が彼女を待っているからだ。
 エロイーズの位相が「観客」から「プレイヤー」に移るのは、サンディがジャックに殺害される映像を目撃して以降である。エロイーズはサンディの死が夢の出来事であったとは思えず、図書館に駆け込み、過去にソーホーで殺害された女性に関する記事を渉猟する。そこに、夢と現実の閾を踏み越えるように、サンディを喰いものにしてきた男たちの亡霊が不気味な足音を鳴らしてやってくるのだ。
 亡霊たちの顔は、一見マネキンのように"のっぺらぼう"である。マネキンは服を着させられることで個体性が付与されるのに対し、彼女を苦しめてきた男たち(の亡霊)の顔面は、サンディの努力によって個体性が剥ぎ取られ、スクリーンのような様態をあらわす。他者の顔がスクリーン化することで何が起きるのか。見つめる者の意識がそこに投影されるのだ。
 髪型や服装を模倣するほど、サンディに自己を重ねているエロイーズにとって、男たちの顔面=スクリーンの中心に穿たれた2つの穴は、サンディ/エロイーズを性のはけ口としてしか見ていない、おぞましい欲望の眼差し以外の何ものでもない。
 サンディの死を契機にした、亡霊の日常への侵入は、エロイーズが「観客」の立場に安住することを許さない。彼女はサンディになり変わり、亡霊たちのおぞましい眼差しに追われ続ける他ないのか?
 事態は急転直下する。実はサンディはジャックによって殺されたのではなく、逆に彼を殺したのであり、その後も客の男たちを次々に手にかけていた。この事実が、"とある人物"によって明らかにされるのだ。亡霊たちは出現当初から、エロイーズを襲おうとしていたのではなく、サンディの殺害(復讐の代行)を求めていたのであり、向けていたのは欲望の眼差しではなく、懇願の眼差しだった。
 亡霊となった男たちは、性暴力の加害者であり殺人の被害者でもある。個体性を取り戻した彼らの顔が呼び起こすのは、もはや恐怖ではなく、軽蔑と憐れみでしかない。サンディに自己を重ねていたエロイーズは、スクリーン化した亡霊の顔に過剰なイメージを投影していた。エロイーズは亡霊一人ひとりの顔に、怪物性ではなく、たんなる愚かな人間の姿を認めることによって、サンディへの同一化の呪縛から抜け出すのだ。
 エピローグでは、エロイーズがデザインした衣裳を身にまとったモデルたちが、ランウェイを闊歩する。その姿はまるでサンディの生き写しのようである。エロイーズは、サンディの映像から"美しさ"を抽出し、新たなイメージを創出することに成功するのだ。そんな彼女の姿からは、映画に深く魅了され、その影響から逃れるためにもがき苦しみ、独自の表現をモノにせんとするシネフィル作家の素顔が透けて見えはしないだろうか?

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